特集 うつぼが町を救う?!

漁師にとっては害獣、釣り人にとっては外道。
嫌われ者のうつぼを日本で一番食べているのは、高知県民! 
年に一度、須崎市で行われる「うつぼ祭り」は、約1トンのうつぼを食べまくる。

うつぼ学会の新田芳夫さん(左)、弘田武彦さん(中)、古谷知義さん(右)、 米澤洋弥さん(前列)

魚の町、須崎から

 浦ノ内湾の入り組んだ浦々は、まるでギザギザの歯。須崎市の形はうつぼの顔のようだ。
 国道56号線と鉄道が通る県西部への主要地域であり、また貨物取り扱い量県内一の貿易港を持つ須崎市は、古くから人や物の拠点として栄えてきた。木材や製紙を取引する商家があり、証券取引をした時代もあった。
 須崎の港にある魚市場。朝になると漁師や漁協職員、魚商人でごったがえす。鋭い目をした魚商人が水揚げされた魚を品定め。「釣りもあれば、大敷漁の魚も揚がる。こんまいしらすから、鯨や本マグロが揚がったこともあった。須崎は商売人が多いき活気があるがよ」。
 市場の前には加工場が立ち並び、落札したしらすを釜揚げし、天日干しする。サバやアジの干物から、ボラの卵を干したカラスミまで、幅広い加工業が発達した。一方、湾では養殖業が盛ん。昭和初期に、竹で編んだ籠を港に設置して釣ってきた稚魚を太らせる「養殖」がはじまった。特にカンパチ養殖は日本初。バブルの頃は飛ぶように売れて、出荷した後は、漁に出る格好のまま、札束握って飲みに行く。そんな時代もあった。

「うつぼはいらんかねー」 独特のイントネーションのかけ声で、魚商人が集まってくる。

市場に水揚げされたしらすは、市場のすぐ横の工場で釜茹でされ、工場の前の冨士が浜で天日に干される。

商売人が立ち上がる

 しかし須崎に暮らす人は減り続け、昭和30年代の3万5000人から、60年間で約1万人が減った。須崎の人に愛された名店も、一つ、またひとつと暖簾を下ろした。
 行く末を案じた商業者は、B級グルメとして「鍋焼きラーメン」を売りだしたり、漁師だけが食べていたメヂカの刺身で「新子まつり」を企てたり、とにかくイベントを起こして、にぎわいを創り出そうとしてきた。市役所は町のかわうそのキャラクターを公募方式でリニューアル。鍋焼きラーメンの帽子を被ったかわうそ「しんじょう君」は、ゆるキャラグランプリ4位をキープする人気ぶりだ。
 そして、バトンは30代、40代の商業者に渡る。古谷知義さん(36)は、酒屋の2代目。大学卒業後、関東の地ビール会社に就職したが、「早う戻ってこんと店を畳む」と父に迫られ28歳で帰郷した。しかし、大型量販店との価格競争にはいかんともしがたいものがあった。商工団体に参加し同世代とやりあううちに、思い切って居酒屋にしてみようとアイデアが浮かんできた。

古谷さんが所属する須崎市の商工会議所青年部と青年会議所は、それぞれ勉強会やイベントを行ってきた、いわばライバル団体。それでも、後継者不足に悩む商業者は多く、打破するためには垣根を取り払うしかない。宝石、室内装飾、自動車整備……、須崎の町の若手商売人が結集し、夜な夜な話し合いを続けた。
 一つの答えは、「自分たちは漁師ではないが、漁師町アイデンティティを持っている」こと。その思いがあれば須崎の町を盛り上げられるのではないか。もし「魚」をターゲットにすると、それは、カツオ? しらす? 伊勢エビ? はたまた養殖のタイか? カンパチか?……。須崎に高級魚は数あれど、どこの町もやっていない、パンチのあるものとは!? と、その時、
 「須崎はうつぼやろ!」
 誰かがふいに口にした。「見た目はグロいけど、食べたらうまい!」「そのギャップはきっと人の心を掴む!」
 かつて須崎の漁師町で獲られ食べられたうつぼにスポットを当て、そのルーツ、捌く技術、豊富な食べ方を掘り起こし、さらにおいしい食べ方を開発すれば、須崎の町はもう一度にぎわいを取り戻せるはず。みんなの思いが合致した2012年、「須崎うつぼ学会」が立ち上がった。

【写真】2015年、6年ぶりに復活した「海の駅 須崎の魚まつり」

外道を求めて海へ出る

うつぼの下アゴの辺りに位置する池ノ浦地区。太平洋に面した小さい入り江を中心に扇状に人家が連なる。江戸時代に3軒からはじまったと伝えられ、沿岸で魚を獲り、段々畑に芋や豆を植えて、半農半漁で生きてきた。
 タコや伊勢エビが住む岩礁地帯に生息するうつぼは、池ノ浦では身近な存在だった。「うつぼで飯を食うたがは、ここぐらいやろうか。カツオにも伊勢エビにも負けんばぁ、うまい」。
 中学を出てすぐに漁師になった福田唯志さん(63)は、父と2人で船に乗り、うつぼを釣った。「おじいさんの時代は、延縄にタコをつけて獲りよった。それから、竹の筒になり、籠になり、代々うつぼを獲ってきた」。
 30歳を過ぎたころ、うつぼ人気に一気に火がつき、価格はうなぎ登り。特大は1匹8千円で売れることもあった。獲りすぎがたたり、近海で獲れるうつぼは小さいものばかりになり、うつぼを食べない宇和島まで獲りに行った。4、5日、船に寝泊まりして、晩に仕掛けて、朝引き上げ、カンコで活かして持ち帰る。1回の航海で数百匹という大漁の日もあり、船の上でうつぼを捌き、しょうゆで炊いて飯を食べた。

うつぼは陸(おか)で進化する

 池ノ浦のごちそう「うつぼ」は、物々交換の品として陸にあがった。カツオやサバとは違い、海から陸上に揚げても何時間も死なない。漁師の妻がザルに入れて、幾山も歩いて越えて、浦ノ内や戸波のお百姓さんの手に生きたまま渡すことができた。
 土佐市戸波で大正時代に創業した中村鮮魚店。最初はぶつ切りにして煮て食べるだけだったが、「焼いたらうまい」という噂を聞いて、「たたき」を考案した。中村和三さん(88)は「カツオのたたきと違うて、うつぼは中までよく火を通さんと、身は硬いし、皮も生臭い」。新しいうつぼの食べ方として、戸波中に広がった。その後、身の厚い部分はたたき、尾は唐揚げ、頭の肉はに煮こごりなど、部位によっても食べ方が変化した。
【写真】中村鮮魚店のうつぼのたたき。薬味は、にんにく葉とシソの実。

 目と鼻の先にある森澤鮮魚店は、昭和40年代に魚の行商と仕出しをはじめた。二代目で魚屋の傍らレストランも経営する森澤大和さん(42)は、「戸波は文旦発祥の地で、裕福な農家が多かった。魚の味にうるさく、魚屋が鍛えられた」。カツオが獲れない冬の看板商品として「うつぼのたたき」を売り、戸波から他地域に移った人たちへ県外発送をしはじめた。「戸波の人は、大きなうつぼを好む。食べやすいように、うつぼを焼いた後に、一本一本ピンセットで小骨を取り除く」。車や製氷機が普及しても、神祭や宴会の皿鉢は、刺身1枚に対して、うつぼは4枚。正月は1匹まるごとうつぼを買っていくお客さんも少なくない。
 海のない戸波でうつぼをおいしく食べているという噂は、須崎の町中にも広がった。昭和55年ころ、魚屋を継いだ青木伸夫さん(75)は、「ガキの頃から食べ馴染んだうつぼを売っちゃろう」と、うつぼを捌いてみた。「開いて、背骨を取っても、身と皮の間に無数の小骨がある。このままでは売れん」。独学で試行錯誤の結果、骨をきれいに取り除く方法を編み出し、子どもからお年寄りまで安心して食べられると評判になり、その捌き方の技は須崎の魚屋に定着した。
【写真】森澤鮮魚店は焼いた後に小骨を取っていく。 試しに数えてみたら、一列に100本以上の骨があったという。

土佐弁講座
こんまい:小さい/メヂカ:ソウダカツオ/カンコ:船の水そう


うつぼの捌き方の詳細は「うつぼ解体新書」ページで!

究極のうつぼ料理

 海のない岐阜県に生まれた細川国男さん(65)は、高知出身の女性との結婚を機に、須崎に移り住んだ。車エビの底引き漁を20年続けたが、燃料代の高騰、漁獲量の減少に思い悩んで船を降り、海賊料理屋で3年修行し、平成8年に「居酒屋 大吉」をオープン。カツオのたたきや伊勢エビ料理を看板に、元漁師の店として出だしは順調だったが、10年も経つ頃には客足は減り、なにか打開策をと考えた結果、「うつぼ」に至る。
 魚屋のうつぼ職人を訪ね、細かい小骨を全て取り除く捌き方を見て学んだ。とにかく実践を重ね、1年ほどで形になったが、納得のいく仕上がりに行きつくまでは6年を要した。毎日、魚市場に出向いてうつぼを競り落とし、多い日には100匹以上を捌く。
 今では年配の人から子どもまで安心して食べてもらえるよう、「柔らかく、食べやすい」うつぼ料理をいくつも創ってきた。須崎で古くから食べられてきた「うつぼのたたき」は、切り身をフライパンで蒸し焼きにして薄切りにすることで、皮の脂も食べやすくした。たれは2種類。味にパンチが出るにんにくだれに、さっぱりとしたゆず酢だれ。お客さんの好みに合わせて、最後の一枚まで飽きずに楽しめる工夫をする。もちもちした「刺身」も、ふんわりと口どけする「天ぷら」も、丁寧に骨を取る細川流の賜物だ。


うつぼの頭と内臓を炊きこんだもの。 特に柔らかい頭の肉、噛むことで発達した頬肉、内臓では肝が人気。


蒸し焼きしたうつぼを薄切りに。 特製だれをつけて どうぞ。


唐揚げとは違う和風の揚げ物。 揚げたては皮がとろ〜っととろける。


うつぼは生でもいけるんです!  もちもちした歯ごたえが特徴。

うつぼが町の救世主

 「うつぼで町おこし!」と考えたうつぼ学会が動き始めた。
 まず、うつぼに関心を持ってもらうべく、頭に被るぬいぐるみを考案。それを被ったキャラクターも描き、お揃いのポロシャツを作った。年間の活動の目玉として、うつぼを食べまくる「うつぼ祭り」を企画し、2013年から開催。祭りではうつぼを愛する女性のコンテストも実施し、既に3人の「うつぼ姫」が生まれ、うつぼをPRしている。
 2014年夏は、ウナギの高騰に商機を見出し、ここぞとばかり「うつぼのかば焼き」を開発。土用の丑の日に地元スーパーで販売すると、長蛇の列ができ、ウナギの倍以上売って圧倒した。
 学会員は、祭り以外にもイベントでたたきや唐揚げを出張販売。うつぼ料理を催事がなくとも食べられるようにと飲食店に声をかけると、「にぎり寿司」「南蛮漬け」「ピザ」など、思いもよらない料理が次々と誕生した。これをきっかけにうつぼの捌き方を習い、自ら捌き料理する店主も現れている。毎年11月から3月のシーズンには、市内19店が趣向を凝らしたうつぼ料理に腕を振るう。
 須崎周辺で食べられ、進化してきたうつぼ。グロテスクな姿が今、グルメの対象になりつつある。第3回うつぼ祭りは、2016年2月7日。須崎の元気な商売人たちが、手ぐすねを引いて待ち構えている。


須崎の漁師が愛した 昔ながらのうつぼ料理。[喜楽]


うつぼがお寿司になりました![魚貴]


揚げたうつぼを甘酢につけた かわり種メニュー。[味道筋]


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