特集 山に咲くロマン

五穀豊穣に感謝し、日頃の労をねぎらう祭り。
高知県では神祭(じんさい)などと呼ばれ、地域独特の習俗が残っている。
今も地域の祭りを支える6人の若者たち。
そこには語り継がれる歴史、人との出会い、未来へつなぐバトンなど、
数々のロマンが息づいている。

高知県の祭りと芸能

中西部は、秋祭りに花取り踊りや太刀踊りを奉納する地域が多い。たすきに白鉢巻の勇ましい高知市・土佐市・日高村、鳥毛をかぶり優美な須崎市・津野山とその周辺、浴衣の着流し姿の幡多郡など地域性がある。そのほか仁淀川上流には太鼓踊り、海岸部を中心にこおどり(うちわおどり)もみられる。 東部は、太刀踊りが室戸市にあるが、盆に花取りを踊る所が香南市夜須町や安芸市・大豊町などに散在する。海岸部の獅子舞、香南市の棒術などのほか、だんじりや花台などがお目見えするのも東部の特徴である。

ヘイチャン復活――貝ノ川に伝わる花取り踊り

 野路菊が足摺の海岸線を白く染める頃。ヘイ! ヘイ! ヘイ!──張り上げた声と太鼓の音が響き、亀甲柄の浴衣にたすきをかけた踊り子は、花のついた太刀を振り回し、猛々しく飛び跳ねる。

山の男が踊る
 海岸部の「浦」と山間部の「郷」の2集落からなる土佐清水市貝ノ川地区。郷で生まれた木村祐三さん(77)は、貝ノ川中学校を卒業した15歳の時に青年団に入った。「郷の青年は秋祭りでヘイチャンをやる。太刀の手さばき、チンガラガラやトントントンの足さばき。地区の先輩に習うて踊ったもんよ」。日暮れが早くなると、お宮の境内に火を焚き、最盛期は40人くらいの青年がぐるりと囲んで練習した。
 祭りの前日は宵の宮で夜踊り、当日は朝からお神輿(みこし)を※かき、お宮から田んぼ、人家の前で何度も何度もヘイチャンを踊った。「日ごろ農業や林業をしゆうもんも、※だれこけた」。木村さんは踊りがうまい者が務める「音頭取り」として先頭に立ち、25歳で青年団を卒業してからは「唄い手」として大きな蛇の目傘を差して道中を練り歩いた。

ヘイチャンは花取り踊りの一種で、「ヘイ!」のかけ声に太鼓の音「チャン」が入ることが由来と言われている。 他地域の花取り踊りよりも跳ねる動作が大きいのが特徴。

ロマンスが生まれる
 「ヘイチャンは男の踊り。男が強うのうては神様が安堵できん」という古老の言葉を紹介しながら「かつては集団見合いの場だった」と言うのは、かつてヘイチャンを取材したことのある作法研究家の岩井信子さん(84)。村の娘は乾燥させた野路菊を枕に忍ばせ髪に花の香りを纏いつつ、思いを寄せる若い衆に自ら縫ったたすきをかけてやったという。祭りの後には数々のロマンスが生まれた。
 時が移り昭和40年代、集団就職や進学で地元を離れる青年が急増し、踊り手がいなくなった。昭和50年代に一時復活したものの長続きはせず、小中学校の運動会で子どもたちが踊る程度に。さらに2001年の西南豪雨で貝ノ川郷地区の水田と農機具が全滅し、農業をやる人はいなくなり、2006年の小学校閉校でヘイチャンは完全に消えた。
 今なお高齢化は進行中で、秋祭りのお神輿を担ぐ者が揃わず、トラックの荷台に載せて各家をまわることで継続している。

ヘイチャンの会場である貝ノ川天満宮に集まった今年の踊り子たち。

復活の兆し
 廣畑靖(せい)さん(45)は就職で一度は地元を離れたが、自動車整備の仕事に就き、貝の川郷地区で暮らしている。「今やらんかったらもう終わる」と危機感を持つ近所の女性たちにヘイチャン復活を懇願された。
 子どもの頃に踊ったことのある廣畑さんは、物心つく前に亡くなった父も音頭取りをしていたという話を聞かされて、背中を押された。「最初は昔のビデオを見て思い出し、木村のおんちゃんからは、ちゃんと屈(かが)んだら動きが大きく、かっこよく見えるとか、踊りの細部を聞いて」、踊りを教える役を買って出た。
 30戸ほどになった郷だけでは人が足らず、浦の住民にも呼びかけた。すると小学生から最年長の木村さんまで、さらに女性も加わって老若男女約30人が踊る地区あげての体制となり、毎週土日の夜に集まり練習を重ねる。そして今年10月、10年ぶりにヘイチャンが復活する。
山間部の神事や地域行事はどこも支える人が足らず、継続の難しさを抱えている。足りないマンパワーは特に若者であり、男性である。地域の高齢者は「地域に若者がいない」と言い、若者は「地域に仕事がない」と嘆く。

【廣畑靖さん】高校を卒業して関東で自動車整備の腕を磨いた。28歳で帰郷し自動車の仕事を続け、現在は土佐清水市の自動車整備会社の工場長を務める。休みの日は地域の草刈りなどでも汗を流している。

消えない祭りの記憶

 祭りは代々繰り返されてきたもので、子どもたちにとってその体験や記憶は何らかの形で体に焼きついているのだろう。その後、成長した若者が祭りの一員になるのには、ちょっとした〝きっかけ〟があればいい。不思議なもので自然に手足が、体が動いてくる。

母の生まれた里で【沢渡・秋葉祭り・岸本さん】 
 高知市で生まれ育った岸本憲明(のりあき)さん(33)は、仁淀川町沢渡(さわたり)地区出身の母に連れられ、小学1年生から中学3年生まで9年間、秋葉祭りに出た。低学年の時は踊り子、高学年になれば笛や太鼓を担う。毎年、正月が過ぎると日曜日には沢渡へ。「市内では珍しい雪が積もっていたり、たき火をしたり、とにかく楽しかった」。練習が終わったあと、大人が鶏を絞めて鍋にして食べるのを見て、子どもながらにぞっとした。
 祭り当日、山の細い道を一列になって歩き、家々で御祓いをしたあと踊る。火消し装束の「鳥毛(とりげ)」が現れると、観客がざわめく。2人一組の鳥毛が踊りながら、東天紅(とうてんこう)の羽根を先に付けた重さ5㎏、長さ6.5メートルのヒノキの棒を投げる。相方はなめらかな踊りの形を崩さないようにしながら、投げられた棒を肩で受け止める。成功すると観客のテンションは最高潮に。「かっこいい!」。岸本少年の血が騒いだ。「大きくなったら2人で鳥毛をやろう」。1歳違いの弟と約束した。

秋葉祭り ❖毎年2月9日〜11日
火の神を祀る秋葉神社の大祭は毎年2月におこなわれ、お神輿は9日にお旅所の岩屋神社へ、10日は市川家で過ごし、11日に秋葉神社へ帰る。3日目の「練り」の道中、太刀踊り、鳥毛ひねりが奉納され、道化役の油売りが見物客を笑わせる。毎年1万人以上が訪れる。
鳥毛は年齢や務める年数に決まりはなく、熟練すると後継者を見つけて教え込む。かつてたくさん人が住んでいた時代は、鳥毛の競争率は高く、長男しかできない時代もあった。祭りの花形でもあり「鳥毛をやったら結婚できる」とも言われていた。

鳥毛を務める岸本憲明さんと弟の将良さん

前馬(まえうま)に抜擢されて【赤野獅子舞・尾木さん】 
 安芸市赤野のナス農家の尾木良多さん(28)は、子どもの頃からよく地区の祭りに参加した。「子どもの神輿とか踊りとか。手伝ったらお小遣いをくれたり、打ち上げに連れて行ってもらったり、それが楽しみで」。
 高校1年の時、住んでいる地区が祭りの担当になり、初めて獅子舞の前馬に抜擢された。「獅子舞の型は慣れればできますが、前馬は5㎏ある重い獅子頭を常に頭上に持ち上げて、決められた首の角度を守り、ぐらつくことも許されない。その上、※テガイコを挑発したり脅かしたりの体力勝負」。日が暮れた提灯あかりの神社の境内で演じきった充実感が、今も体の奥底に残っている。

【尾木良多さん】

日本一の冬春ナスの生産地・安芸市で両親とナスを栽培する。47aのハウスに毎年8月下旬に苗を植え、9月中旬から翌年7月上旬まで収穫は続き、市場やJAに出荷する。家族が食べるピーマンやキュウリなどの野菜や米なども作っている。

真剣を持つ緊張感【下津井牛鬼・下本さん】
 下本誠さん(39)は、かつて林業で栄え、今も森林軌道跡の「めがね橋」が残る四万十町下津井に生まれた。毎年秋祭りの朝になると、集落の家々を牛鬼が練り歩く。「小さい頃は牛鬼が※こおーて。牛鬼を先導する竹笛が聞こえたら布団部屋に潜り込んで隠れよった」。人の何倍もある頭、その形相、大人が7〜8人も入って動かす巨大な牛鬼に怯えた。

下津井では男の子は小学校にあがると、子どもだけの花取り踊り「小太刀(こだち)」に参加することができた。「10月に入ったら毎晩練習。1、2年ではよう覚えれん。大人は厳しいし、泣いても許してくれんかった」。中学生になると、大人の花取り踊り「大太刀(おおだち)」が踊れるようになり、その時は家々に受け継がれる真剣を振りかざす。少しでも手元が狂えば相手を斬ってしまう危険がある。でもそれは、怖いというより、憧れ。「真剣を持たせてくれるがは、大人の仲間入りを意味した」と下本さんは振り返る。

下津井仁井田神社大祭
❖毎年11月25日
牛鬼と花取り踊りがメインのお祭り。午前中は、若者7〜8名が頭が鬼で胴体が牛の形をした体長5mの「牛鬼」を担いで家々を訪れる。午後は、仁井田神社の境内で花取り踊りの奉納。大人と子どもが10人ずつ、太鼓打ちを中心に輪になり太刀踊り9番、鎌踊り7番を踊る。



最後は餅投げがあり、子どもが生まれた家庭は直径30cmほどの一升餅、二升餅も投げる。奪い合いをすることで子どもの健やかな成長を願う風習も残っている。

山間の若者たち

数は少なくても地域に残る若者がいれば、Uターン、Iターンする若者もいる。若者たちは生活の基盤を作ることに必死だ。そして全員、仕事を終えてから祭りの準備に駆けつける。

【桑名翔也さん】日当たりがよくミネラル豊富な土地を持つ山北は、高知県の代表的なみかんの産地。87aの露地畑で、春から夏にかけて剪定や摘果をする。極早生品種は10月中旬から収穫しJAや産直に出し、3月頃まで出荷は続く。

みかん畑を継いで【山北棒踊り・桑名さん】
 山北で生まれ育った桑名翔也さん(24)。熊本で大学生活を送っていた時、山北みかんを栽培していた祖父が体調を崩した。小さい時から祖父母が作るみかんを食べるのが楽しみだったが、両親は勤めに出ていて、みかん栽培を続けられるのは祖母一人。「だったら自分が一緒にやろう」。Uターンして就農することを決めた。
 実家の裏山に広がるみかん畑。曽祖父が植えた50年生の樹もまだ残る。「祖父が元気なころはハウス栽培もしていましたが、燃料代が上がってからは露地専門。天候の変化や台風が来ると被害が心配で」。10月中旬からの収穫に備えて、肥料をやったり摘果(てきか)をしたり、毎日みかん畑で過ごしている。
 ある日、祖母と畑に出て仕事をしていると、近所の農家の先輩がやってきた。「農業やるやったら、棒に入れや」。棒踊りは小学校6年の時に一度したことはあったが、よくわからないまま、公民館の隣にある山北棒踊り保存会の門を叩いた。

山北棒踊り ❖毎年11月18日
浅上王子宮の秋祭りに披露される山北棒踊り。白装束に水色のたすきを掛け、「サイ!サイ!サイ!」と青年が威勢のいい掛け声をあげ、カンカンカンと樫の棒を打ち合う高い音が境内に響きわたる。
約300年前、佐川深尾氏の子孫である山内規重(のりしげ)は、6代藩主豊隆に山北村に蟄居(ちっきょ)を命じられた。この時、退屈を紛らわせるため、家臣が付近の若者を集めて小栗流の棒術をしたところ、規重は喜び、引き続き行うようになった。

お茶にかける【沢渡・秋葉祭り・岸本さん】 

岸本さんは23歳の時、「鳥毛やってみん?」と声をかけられた。「大工だったので体力には自信があったけど、棒を受ける肩は内出血するし、棒を持ち上げるため腹筋がバキバキになる。年寄にはいろいろ言われて腹が立つし、よっぽどやる気がないとできん」。見よう見まねで鳥毛デビューを果たした。そして2010年には念願の兄弟の鳥毛が実現した。
 「秋葉祭りのある仁淀川町に住みたい」。岸本さんは24歳の時、会社を辞めて妻と子と3人、仁淀川町に移住した。つてを頼って石灰の会社に勤めたが、お茶を栽培していた祖父が病気で倒れた。「今教えてもらわないと、このお茶畑はなくなってしまう」。家族を説得し、お茶畑を継ぐことにした。
 春は茶摘みと加工。夏、秋、冬は翌年の新芽を育てる親葉がちゃんと育っているか確認したり、草刈や肥料やりに忙しい。合間を縫って、サカキやシキビを採って販売したり、お茶を使った加工品の製造に着手したり、新しい購買層の開拓に余念がない。

【岸本憲明さん】

標高300mの急斜面に広がる1.5haの畑でお茶を育て、毎年春には3トン収穫し、「沢渡茶」として販売している。2012年に白あんに茶葉を混ぜ込んだ沢渡大福を商品化し、アンテナショップてんこす(高知市)や高知龍馬空港(南国市)などでも販売している。

企業に勤めながら【下津井牛鬼・下本さん】
 下本さんは、中学卒業とともに地元を離れた。高校を卒業してとび職になり、北は青森、南は鹿児島まで全国を転々とした。結婚を機に、地元の土木会社に入り、下津井に戻ってきた。「祭りにも参加したいし、山で秘密基地を作ったり、川でアメゴをついたりした地元で、自分の子どもも遊ばせたい」。しかし、保育園まで20㎞、ヘアピンカーブの続く山道は生活のハードルになり、やむなく四万十町大正に引っ越した。
 実家の前の田んぼでは、稲を育てている。「水が冷たくて寒暖の差もあるき、おいしいと評判。去年は夏の大雨でようなかったけど、今年は順調」。稲の世話によく下津井に戻っている。

【下本誠さん】

農機具メーカーの知り合いが毎年買っていくという下本さんのお米。今年は大粒のヒノヒカリを栽培した。農薬や化学肥料をなるべく使わないように自然に近い状態で育てている。

地域の期待を背に受けて

 祭りの準備は、短いところで1か月前、長いところは3か月前から始まる。長く続く練習の過程で仲間との連帯が強まり、ライバル心も湧き、たくましい大人へと鍛えられていく。そして当日、多くの観衆の中で踊りきった後の達成感。ますます祭りに惹かれていく。

さりげなく誘われて【斗賀野花取り踊り・庄野さん】
 戦国時代の花取城の伝説が語り継がれる佐川町斗賀野出身の庄野治さん(42)。「選ばれた身ながやき、美少年らしく踊れ!」。いきなり檄を飛ばされた。社会人になったばかりの時に地元の先輩に誘われ花取り踊りを踊ったが、見るのと踊るのとでは大違い。「子どもの頃に確かに見たことはあったけど、刀の振り方に足運び、普段の生活で使わないような筋肉を使うので思うようにいかん」。刀の踊りが3つ、なぎなたの踊りが3つ、入場退場の踊りを含める7つを踊りきる。先輩から手ほどきを受け、「太鼓の音にあってない」「振りが遅れちゅう」とダメだしのオンパレード。それでも練習を重ね、落ち込まず、先輩たちに付いていく。あとで聞くところによると、地域の祭りを担う後継者を探していた先輩に白羽の矢を立てられたらしい。

斗賀野花取り踊り ❖毎年11月12日
佐川町斗賀野の白倉神社、美都岐(みつぎ)神社では、花笠に山鳥の羽根を付けて被(かぶ)り、刀やなぎなたを持って踊る「花取り踊り」が行われる。
謂(いわ)れは戦国時代に遡(さかのぼ)り、堅固な「花取城」がなかなか落城しないので、軍の中から選ばれた美少年を美しく飾って踊らせると、城中の兵士も町に出てきて見惚れてしまい、その隙に城を落としたという。城があった場所は須崎とも幡多とも言われている。

山鳥の羽根の笠をかぶる花取り踊りは、斗賀野を北限に、仁淀川町、須崎市、津野町、中土佐町、四万十町に広がっている。

仲間と支え合って【山北棒踊り・桑名さん】
 11月に入ると、山北の若い衆が毎夕練習に集まってくる。棒踊りは小栗流の古武術の一つで、こめかみと膝の二か所の急所を狙って棒を打つ。「ちょっとでも外れたら、きれいな音は鳴らないし、けがをする。相手を倒すつもりで強く打ち抜かないといけない」。桑名さんは先輩から初級の「ひしの形」を習い、同い年の相方と棒を打ちこむ。「やりゆううちに〝入った!〟と感じるときがある。でも、まだ先輩の足元にも及ばない」。保存会には20年以上棒を打ち込む40代の先輩もいる。「棒踊りは坂本龍馬も習った小栗流棒術。棒術を研くのはおもしろいし、仲間も楽しい。結婚しても続けて40代までやるつもりです」。

祭りの謂れを知って【下津井牛鬼・下本さん】
 「担げて、酒が飲めたら誰でもいい」。下津井の若い衆は20歳を過ぎたら青年団と呼ばれ、牛鬼の中に入れるようになる。祭りの当日、先輩が牛鬼に「※あこまでまっすぐ行け」と指をさせば、田んぼの中だろうが崖だろうがまっすぐ行く。それを見て周囲から笑いがおこる。担ぐ人が高齢化した今は、地元で働く四国電力の社員が毎年手伝ってくれる。
 下本さんは長老から聞いた話を思い出す。「昔は水田やのうて、麦畑。踏めば踏むほど大きく育つもんで、畑に牛鬼を歩かせた。五穀豊穣の意味があったんでしょう」。道なき道を行く牛鬼の謂れを知っていく。

赤野獅子舞 ❖ 毎年7月と10月
獅子頭を持つ前馬と、常に中腰で獅子舞の体の動きを表現する後ろ馬、獅子舞を※てがい観客を笑わせるテガイコ、太鼓打ちの最小4人から構成される。飛脚が便書の配達途中に寝ていた獅子をおこしてしまう「飛脚」や、「どじょうすくい」、「メジロ落とし」など、いくつもの演目が伝わる。テガイコは見物客に助けを求めたり、獅子に噛みつかれて赤ふん姿を披露したり、随所で観客を笑わせる。
夏の宵の宮は大元神社で奉納される夜の獅子舞を目当てに、隣の芸西村からも見物客が詰めかけたという。

赤野獅子舞保存会の尾木佑一さん(前馬)、宮崎武士さん(後馬)、 尾木憂希さん(テガイコ)、小松弘延さん(太鼓)

次の世代へ

 いろんな形で神事や地域行事に引き込まれる若者たち。かつてを引き継ぐだけでも大変なのに、次代への引き渡しも同時に行っている。

 練習が終わったらOBが差し入れてくれたビールや酒を飲むおつかれ会に出るという桑名さん。新入りは「新棒」と呼ばれ、宴会では準備や片付けもしなければいけない。会社勤めの仲間を先に返し、最後まで付き合う。「棒踊りの仲間は世代は違うけど、みんな下の名前で呼び合って、棒踊りのことだけでなく人付き合いのこととか、いろいろ学べる」。
 秋葉祭りで踊りと鳥毛を出す奉納組は、岸本さんが住む沢渡地区と、本村地区、霧の窪地区の3つ。地区ごとに練習するが、町内の居酒屋でよく顔を合わせる。「みんなライバルなんで、祭りやなくてもしょっちゅう腕相撲して戦っています」。若者同士、地区は違えど仲がいい。
 一方、かつて6集落が持ち回りで担っていた赤野獅子舞は2014年、地区を越えた保存会を発足させた。一度地域を出た人や、市外から移ってきた人も仲間に加わった。「地区が違えば同世代でも知らない者ばかり。獅子舞の練習や祭りを通して赤野全体の若いもんが一緒になって酒も飲める」と尾木さん。若者が一緒になれるのも祭りの効果、獅子舞を通して気心を通わせ合い、地区全体のつながりをつくっている。

【庄野治さん】高知市上町の老舗砂糖卸売会社・竹村商店に20年近く勤務し、家族と暮らす斗賀野から職場へ通い、食品問屋への営業や砂糖や食材の配達を行っている。地元のバレーチーム・スケアクロウズではキャプテン的存在。

「花取りをやるもんは地元の青年団のような存在」と言う庄野さんは、祭りだけではなく、週2日は佐川の体育会のミックスバレーに汗を流す。さらに、地元の花火大会を手伝ったり出店をしたり、年間通じて地域の活動に参加する。「おのずと横のつながりは強くなります」。
 ここ数年、踊り子の子どもやその友達から花取り踊りをしたいと要望が相次ぎ、小学1年生から参加できるようにした。祭りの当日は青年20人に加えて、子ども20人も一緒に花取り踊りを披露する。「自分たちは子どもの頃に踊るチャンスはなかったけど、子どもの時に踊ったら斗賀野の花取りも残っていくがやないろうか」。

人が減り、大勢で味わう高揚感は得にくくなった。しかし祭りには、地域の頼れる男を育てる、地域が一つになる、次世代に引き継ぐ、そんな仕掛けがある。
 小さい時の経験をつくる——かつて子どもの頃、無意識にしてきたことを、今の若者たちも自分流で伝えようとしている。

土佐弁講座
かく:担ぐ/だれこけた:疲れきった/テガイコ:獅子にちょっかいを出す役/こおーて:怖くて
あこ:あそこ/てがう:からかう