高知県の歴史に触れる県史特集「一條さんの町 中村」

今回のテーマは、土佐の小京都・中村の歴史。 戦国時代に京都からやってきた公家・一條氏は 中村を発展させ、文化を伝えていった。 その誇りは、いまも中村の人々に受け継がれている。


江戸時代の中村市街地を描いた古地図(中央)と、一條教房の跡を継いで土佐一條家を率いた、2代目・一條房家(ふさいえ)の肖像画(右)。古都らしいエリアや行政機能があるエリアなど、町割りはいまも残されている。

幡多に逃れた 一條氏がその地に深く残した 今も息づく文化とは?

「土佐の小京都」と呼ばれている、四万十市の中村市街地。その由来は、十五世紀に京都からこの地にやってきた一條教房(いちじょうのりふさ)と、その後の「土佐一條氏」によるまちづくりにまでさかのぼる。「一條大祭」といったお祭りが例年開催されるなど、今でも地元住民に親しまれる一條氏は、中村の人々に何をもたらしたのだろう。今回は、四万十市教育委員会市史編さん室の川村慎也室長にお話をうかがった。  「よく『一條氏が京都を模して碁盤の目のように町割り(道路や区画の整備)をした』と言われますが、実は、それを明確に示す資料は残っていないんです」と川村室長は話す。一條氏による開発はもちろん、それ以前からあった町割り、江戸時代に土佐藩主の山内家が整備した武家屋敷(行政機関)など、時代を重ねるごとに、中村の街は横に縦に開発されてきた。その経緯が、いわゆる「碁盤の目」の由来かもしれない。それでも川村室長は、「一條氏の影響は、目に見えない、もっと深い文化のなかに残っている」と言う。

「天神橋商店街」を歩きながら、当時の町並みを話してくれた川村室長。指差す先には「一條神社」が。

辺境の地が 最先端の文化のまちに 地元への自信が芽生えた

一條教房と言えば、当時の朝廷で「関白」、現在で言うならば総理大臣を務めたような存在。そんな政治の大物が、まだまだ辺境の地だった中村にやってきて、地域を発展させていった。「不破八幡宮」という優美な神社を建立したり、その対岸にある一條氏ゆかりの「坂本遺跡」からは、大陸からの渡来品まで出土している。つまり一條氏は、当時の京都や海外の最新の文化を、中村の人々にもたらしていたのだ。「それこそが、中村の人々が地元をポジティブに捉え直すきっかけになったのでは」と川村室長は指摘する。「『中村は辺境の地じゃない。京都の雅な文化がある、一條さんの町なんだ』という自信やアイデンティティが、中村の人々に芽生えたんです」。

一條氏以後も続く 小京都のまちづくり その歴史は今もつづく

天正2年(1574年)、長宗我部元親の策略により五代目・一條兼定(かねさだ)が豊後(大分県)へ敗走したことで、一條氏は中村から姿を消してしまう。しかしその後も、中村の人々は「一條さんの町」を大切にしたまちづくりを続けた。「大文字の送り火」といった季節の行事はもちろん、江戸時代末期には地元有志が、土佐一條家を祀った「一條神社」を市街地の中心に建立。それは時の為政者であった山内家にも否定されることなく、以来「一條大祭」は百五十年以上続き、親しみを込めて「いちじょこさん」と呼ばれている。「こういった地域の歴史を、あらためて『四万十市史』として編さんする取り組みがスタートしています」と川村室長。一條さんがもたらした公家文化の香りは、今も中村の町に残っている。

一條神社(上)は、一條家の御廟所(ごびょうしょ)跡地とされる、市街地中心部の小高い「小森山」の山頂にある。例年11月に開催される一條大祭(下)は、地域住民にとって秋の風物詩だ。

中村城跡にある「四万十市郷土博物館」から見下ろす、中村市街の風景。