特集 高知の地芝居

夜の帳(とばり)が下りる頃、素人役者が舞台に上がる。
江戸時代から、地芝居は庶民の楽しみだった。
高知県には今も4つの地域に地芝居が残り、夏や秋の祭りで上演されている。

歌舞伎と土佐

 出雲阿国がかぶき踊りを披露したのは、安土桃山時代の京都と伝えられる。時代が江戸へと移り変わると、歌舞伎や浄瑠璃は、男の芸能として進化した。

 高知県の東の端、室戸市佐喜浜には元禄時代に八幡宮歌舞伎を上演した記録がある。五穀豊穣を祈る神祭は、仕事の手を休め日頃の労をねぎらう場でもあった。皿鉢を囲んだ※おきゃくの他、旅芸人や地元の素人役者による歌舞伎芝居に熱狂し、禁制を敷いていた土佐藩も、年に一度は目をつぶった。県内各地に廻り舞台が建てられ、至る所で歌舞伎が上演された。

 明治、大正へ時代が変わっても歌舞伎ブームは衰えなかった。昭和3年生まれの中村和子さんは、幼少時代に歌舞伎を習い始め、10歳になる頃には、全て女性が演じる乙女歌舞伎・中村八重子一座の一員として、満州出兵した兵士の慰問へ旅に出た。戦後は、歌舞伎の経験を生かして、地歌舞伎の台本を書き起こし、振り付けから着付け、かつらや化粧などを引き受け、津野町高野や香南市赤岡の地芝居復活の手だすけをした。

芝居のいろは

廻り舞台…舞台の中央にあり、芝居の場面転換で使われる。床下に潜って数人で動かすものや、舞台袖のハンドルで動かすものなど様々ある。

セリ・スッポン…舞台や花道にある穴で、役者が登場したり退場したりできる。舞台や花道の下は「奈落」と呼ばれる。

 太夫(たゆう)座…太夫が座る場所。舞台向かって右手にあり、舞台と観客席の両方が見渡せる。

 義太夫節…浄瑠璃の1つ。江戸時代前期に大阪の竹本義太夫がはじめた。人形浄瑠璃の文楽など一般的には「語り」と「太棹(ふとざお)三味線」の2人1組で演じるが、高知では1人2役で演じる。

下座(げざ)音楽…細棹三味線や太鼓、鼓、笛などの和楽器を演奏して、芝居のバックミュージックを担う。芝居中は、舞台の袖で演奏している。

三番叟…芝居の始めにおこなわれる音楽と踊りの演目。

ミニ土佐弁講座※おきゃく:宴会のこと


この写真には「昭和19年3月14日、富岡局開催(兄弟座)二日目の大盛況」と書かれている。中村八重子一座は、その実力が大阪の劇団に認められ、県内外を巡業に回った。ブロマイドの右が中村和子さん。

高知の地芝居①[高知市春野町西畑・岐神社]
西畑デコ芝居と女義太夫
夏の神祭に年に一度の幕が開く。そこには必ず女義太夫の姿がある。

 「よっこいしょ、どっこいしょ。みなさんこんばんは。今年も西畑(さいばた)は岐(ふなと)様の夏祭りにおいでいただきまして、誠にありがとうございます。あら、拍手がない」。下がり眉に赤い鼻の幕引きの※デコがおどけると、客席がどっと沸く。
 旧暦の6月25日、春野町西畑の岐神社の夏祭り。田んぼから神社に延びる畦道を歩くと、カエルの大合唱が響き、むんとした風に稲の匂いが漂う。
 神社の下には、芝居小屋。小学生による「はるの子宝三番叟」や、ラムネ早飲み、ビール早飲み競争などにぎやかな余興が終わると、あたりは夕闇に包まれている。
 祭りの花形、西畑デコ芝居の幕が開いた。

西畑デコ芝居とは

仁淀川の河口に位置する高知市春野町西畑地区は、明治初期、サトウキビを栽培する農村地帯だった。ぜいたく品の砂糖の原料は高く売れ、一家に一挺(ちょう)三味線があったと言われる。※カイツリの夜、青年たちが地域の家々を訪ね歩く中、襖を横にして蹴込(けこ)み(舞台)とし、よさこい節や伊勢音頭を演奏し、指人形を踊らせた。それは、本格的なデコに進化し、さらに地語りを義太夫節、歌舞伎芝居より題材をとり、数人で一座を組んで農閑期に人形芝居の興業を打った。それは高知県全域で上演され、爆発的な人気を博した。県内だけでなく県外にも西畑デコ芝居を上演する人形座がたくさん生まれた。一人が一体を操る差し金使いの技法は日本のどこにもなく、のちに世界の人形劇のスタンダードな手法になった。 しかし、映画やテレビなど娯楽が庶民に浸透するにしたがって人形座の数は減り、発祥地の西畑の火も消えた。
※デコ……人形のこと。でくのぼうが由来という説もある。
※カイツリ……旧暦1月14日の晩、子どもや若い衆が連れだって家々を訪ね、お餅などをもらう行事。

女義太夫が語り継ぐ
 土佐の地芝居は義太夫が欠かせない。竹本美園(みその)さんは高知県ただ一人の義太夫演奏者として、県内各地を回る、高知の地芝居をつなぐ存在でもある。
 高校を卒業して保育士養成学校に通い始めた頃、中学の先輩から人形劇団「ピコロ座」に誘われた。保育園に人形劇を見せに行った時のこと、「あたかも生きているかのように人形を動かすと、子どもが夢中になってのめりこんでくる」。自分を表現することが苦手な性格だったが、人形を遣(つか)うことに何ともいえぬ楽しさを覚えた。ほどなくしてピコロ座は西畑デコ芝居の経験を持つ人から教えを受けることになる。数年後、ピコロ座のメンバーの中から「かがし座」が結成され、夏祭りなどでデコ芝居を披露するようになった。
 子育てが一段落した美園さんはかがし座で人形劇活動を再開。下座音楽の三味線を担当することになり、野市町の竹本園太夫さんに弟子入りした。その年の秋、初めていの町八代(やしろ)の青年奉納歌舞伎にお供し演奏した。歌舞伎を演じる農家の青年たちには数え切れないおひねりが飛び、舞台は足の踏み場もなくなる。父の演技を観た子どもは「かっこえい! 俺もあの役をしたい」と目を輝かせる。損得抜きで舞台を支える人たちの気持ちのよさに感動し、自分がその中にいることに心が満たされた。
 しかし、太夫の後ろの囃子(はやし)部屋で弾いた三味線は散々だった。その時、師匠は一言、「悔しかったら稽古したらえい」。保育士を辞め、週に2、3度、バスで野市まで通い、三味線の練習を続けた。やがて「太夫をやってみるかよ」と師匠に背中を押され、義太夫語りの稽古に打ち込んだ。
 義太夫が弾き語る浄瑠璃(じょうるり)は、語りと音だけで空気感を作り出し、パワーのある太棹(ふとざお)三味線のひとバチで喜怒哀楽を表現する。「義太夫の型は江戸時代から変わらない。でも家元制ではなく、その人の個性や人間性が出てしまう。だから深くて難しい」。何度稽古を繰り返しても「できた」ということがない。落ち込んで飛び乗った最終バス。窓の外を眺めたら、まんまるの月が浮かんでいた。「あぁ、あの月へ歩いて行くようなことを始めたがや……」。たどり着けないくらい遠いなら、一段一段のぼって行こう。腹がすわった。

100年の時を超えて
片山美弥子(みやこ)さんはいの町枝川に生まれ、23歳で春野町西畑の農家に嫁いだ。「デコ芝居の西畑にお嫁にいくがやね」。年配の人たちから必ずそう声をかけられた。「西畑デコって?」と夫の隆さんに聞くと、明治時代に生まれたものの、長い間地元から姿を消し、頭も衣装も一つも残っていないという。数年後、岡山で西畑デコを継承する人形劇団が農協の出荷場に公演に訪れ、観る機会に恵まれた。「なぜ、この素晴らしい伝統芸能を地元でしないの!?」。その言葉が胸に響いた。
 その後も結婚前から続けていた子ども会や公民館活動に精を出した。日本全国の伝統芸能を継承している秋田県の劇団を呼び、春野中学校の体育館を1200人の人でいっぱいにした経験を買われ、「春野に文化施設ピアステージができる。町の文化振興役になってくれないか」と町の職員から言われた。
 どうしたものかと悩みつつ足元を見ると、西畑には青年団がなくなり、夏祭りも旗が立つだけ。かつて地域のみんなが楽しんだデコ芝居でつながりが戻らないだろうか。「私は西畑デコを復活させたい!」。美弥子さんは思わず叫んだ。さっそく農家仲間や近所の人に呼びかけたところ、同じ思いを持つ20人が集まり西畑人形芝居保存会が結成された。
 「西畑デコ芝居を教えてほしい」。かがし座の代表に相談したところ、「発祥の地、西畑だからやりましょう」と快く引き受けてくれた。仕事を終えた後、週に2回人形操作の基本を学び、他の日は頭作りを習ったり、竹本美園先生宅に和楽器の演奏を習いに通った。人形に着せるカラクリの着物やわらじは「やっちゃろう」と地元の器用な人が作ってくれた。「頭も人形操作も和楽器演奏も、全て地域の人の手で作りあげる。デコ芝居は総合芸術だったがや」。改めて、西畑デコの素晴しさに気がついた。
 あっという間に数か月が経ち、8月初旬、岐神社の夏祭りで本番を迎えた。朝早くから地域の男性たちが稲を刈ったばかりの田んぼに芝居小屋を組み上げる。「本日、岐様で西畑人形芝居の復活公演をします!」と役場の広報車が町中に知らせて走る。あたりが暗闇に包まれ、ヒグラシの声が響く頃、カンカンカンと拍子木を打つ音が鳴り響き、「岩見重太郎大蛇退治」の幕が開いた。1996年、およそ100年ぶりに、地元の人たちが西畑デコ芝居を復活した瞬間だった。


『幡州皿屋敷 青山鉄山館の段』(2015年公演)

西畑デコの進化


卵の殻…卵の殻に目口を描いて頭(かしら)とし、人差し指に差し込み、ふくさが衣装。


おがくず人形…桐のおがくずを糊で固めて粘土をつくり、顔の土台を作る。乾燥するとひび割れるため、何か月もかけておがくず粘土を埋め込んでいく。膠(にかわ)を煮溶かした液と胡粉(ごふん)を練り、顔に塗って艶を出した。目は豆電球などのガラスを埋め込んでいる。より人間らしくするため、かつては人毛が使われた。


差し金遣い…人形を人間のように動かしたいと工夫を重ねた。舶来のこうもり傘の丸骨のハガネのしなりに目をつけ、人形の両手に差し金をつけて、片手で操作できるようにした。


指に真っ赤な「ざいさん」…人形遣いは、人差し指に赤い布を巻きつけて頭をつける。この指で財産を稼いでくるという意味で、西畑ではこの赤い布を「ざいさん」と呼ぶ。

若さと元気を語りに注ぐ
西畑デコ芝居に奔走する美弥子さんの後を、小学生の末っ子・絵理加(えりか)さんが付いて回る。大蛇の尻尾を持ったり、人形のエプロンを縫ったり。「とにかく大人に混じるのが楽しくてたまらんかった」。三味線の音色は最高の子守歌となり、三味線と共に母に背負われ帰宅することも。芝居の台詞(せりふ)や義太夫の語りはいつの間にか体に染みつき、空で唄えるほどになっていた。
 「声がでかいき、太夫をやりや」。中学3年の選択授業で西畑デコ芝居を選んだ絵理加さんは、母から勧められ竹本美園先生に義太夫語りを習った。「流行の歌と同じで、簡単にコピーできるろう」と高をくくっていたが、言葉の意味を理解し、間で雰囲気を作ることは容易ではない。高校生になると太棹三味線の練習も加わった。太夫の太棹三味線は、細棹三味線に比べて形も音も大きく弾くパワーのいる、まさに男の楽器。それでいて、三味線のひとバチに悲しさや衝撃を語らせねばならない。爪には糸の跡が刻まれ、指にはバチだこができた。ぎりぎりまで伸ばした声の限界が訪れる寸前、「ジャン」と三味線音を鳴らすことができない。一人二役の難しさは、まるでゴールのないマラソンのようだった。
 「語りにも三味線にも妥協したくない」。何度も何度も納得できるまで稽古をする。大きく口をあけ、顔をゆがませ、時にしわを作って声を出す。お腹に力を入れすぎたせいか、腹筋が厚くなりウエストが太くなった。“女”を捨てて舞台に上がる。

今につながる義太夫節

 踊れる体育教師を目指していた片山芳奈子(かなこ)さんは、日本女子体育大学に進学するも、やがて興味はお芝居に向き、卒業後は現代劇の俳優として活動した。ある映画で、わらじを編みながら夫の帰りを待つ農家の女性を演じることになった時、台詞がうまく言えずNGが連続。言葉を出すことへのコンプレックスをひしひしと感じた。
 撮影を終えて帰省し、西畑デコ芝居の練習で竹本美園先生の語りを聞いた時、心が震えた。「語り一つで感動させられる。こんなにすごい世界があったとは」。
 帰郷し、実家の農園で働きながら竹本美園先生のもとに稽古に通った。義太夫節は芝居に登場する何役もの台詞や心情を語り分けつつ、その場の状況を語りと三味線で表現し、ナレーションの役割も果たす。役になりきりすぎると、役者の経験があだになることさえある。「もっと義太夫節の世界に浸っていかないと」と痛感した。
 29歳で結婚した。妊娠しても臨月まで稽古を続け、出産後は娘を連れて稽古に通った。農園の手伝いをしながらの初めての子育て。夏の芝居シーズンを目前にして、稽古をする時間はなかなかとれない。しかし、「娘と稽古、どちらも疎(おろそ)かにしたくない」。気持ちばかり焦った。
 「傾城(けいせい)阿波の鳴門」を稽古した時、はっきり変化を感じた。生き別れた母子が再会する場面、娘に危害が加わることを恐れて実母であることを打ち明けずに見送る。以前は「突き放すなんてかわいそう」と思っていたが、ぎゅっと胸が締めつけられた。今は、子どもの身を守る母の気持ちが身に染みてわかる。「私が感じたことは、義太夫語りに欠かせないのかもしれない」。現代の親子関係にも通じる義太夫節を語りたい。そんな思いが芽生えた。

西畑から人の輪が広がる

 2003年から「伝統文化子ども教室」が公民館活動として始まった。教室では毎年6月から約2か月、西畑子ども会に参加する小学1年生から6年生までが西畑デコ芝居に必要な和楽器の基礎や立ち回りを習い、地域の人たちを前に発表する。もう250人以上が育っていった。
 子ども会の保護者会は独自に寄付を集めたり夏祭りの出店の準備をしたりしてくれ、企業は地元の文化を大切にしようと幟(のぼり)を揃えてくれる。子どもたちは敬老会に呼ばれて発表したり、春野高校にデコ芝居のサークルができて文化祭で上演したり、西畑デコ芝居は地域の誇りになりつつある。「練習がんばっちゅうかね」「今年は三味線をやるが」と、地区の人が子どもに気軽に声をかける光景も見られるようになった。西畑デコ芝居が復活して20年、保存会会長の片山隆さんは「やっと昔のにぎわいが戻ってきた」と頬をゆるめる。
 いま西畑には親の仕事を継いだり移住者が入ってきたり、30代、40代の就農者が増えてきている。野村ひかるさんは県外からUターンし、保存会に加わった。「自分は前に出るタイプではなかったけど、小学6年生の時にデコ芝居の主役をやったことで自信が持てた。地元にそういうきっかけを作ってくれるものがあるのはすごいこと」。23歳になった今年、タルトの専門店「野菜がタルト」を春野町に開店した。実家では県外のレストランに卸すほどの味自慢のトマトを作っている。「地元で採れた野菜のおいしさを味わってほしい」。今度は子どもたちに「すごい」と感じてもらう番がきた。
 地元を誇りに思う気持ちは、西畑の人と人をゆるやかにつなげ、地域の隅々へと広がりを見せている。

最近の伝統文化子ども教室では竹本美園さんが創作した「はるの子宝三番叟」の上演を目標にしている。低学年は踊り、中学年以上は楽太鼓やしめ太鼓、小鼓、当たり、三味線など和楽器を練習し披露する。

西畑人形芝居は2002年に高知市無形民俗文化財に指定された。西畑人形芝居保存会は若いメンバーも加わり、今年20周年をむかえた。

西畑デコ芝居を観に行こう!

2016年7月28日(木)19:30〜 
演目「岩見重太郎大蛇(おろち)退治」

大蛇退治をした岩見重太郎と塙団右衛門が対決する。
時代のヒーローが登場して戦い合う姿は見もの。入場無料。