高知市内を起点に、東西南北を結ぶとさでん。
全部で76ある駅の中から西の端っこ・伊野駅にまつわる話をお届け。
救世主となった路面電車
伊野の製紙業発展を後押し
高知の産業発展に大きな影響を与えてきた路面電車だが、伊野町(現いの町)の製紙業を下支えしていたのをご存知だろうか。明治の初期、伊野は製紙と原料の集散地として急速な発展を遂げたものの、当時は輸送手段が馬車や手押し車しかなく、港まで運ぶのにも一苦労。
中でも莫大な輸送費がかかることが一番の悩みの種だった。「聞いた話では、伊野から港までの輸送料と、港から京阪神までの輸送料がほぼ同じだったそうです。それでは儲けが薄くなってしまいますよね」。
そう話すのは、50年以上にわたって紙関係の職に従事し、現在は「いの町紙の博物館」に勤める池典泰さん。ピーク時には高知県内に5000~6000戸の紙屋があり、そのうちの1000戸以上が伊野町及びその周辺に集中していたというから、新たな輸送手段が求められたのは必然のことだった。
そんな紙の町の救世主となったのが路面電車だ。明治41年に伊野線が全通したことで紙を乗せた貨車を桟橋まで直送できるようになり、そこから船で京阪神へ輸送。これまで多大にかかっていた港までの輸送費を大幅に抑えることができるようになった。
そんな状況も後押しし、伊野の製紙業は明治の中頃から大正の終わりにかけて日本一の生産量を誇った。伊野の、そして高知県全体の経済発展も後押しした影に、路面電車の存在がある。
私が知っている
端っこ駅の昭和の風景
昭和28年頃の話です。当時、車掌をしていた中で特に記憶に残っているのが、桟橋での朝の風景。御畳瀬などのおかみさん達が巡行船で桟橋まで来て、そこから電車に乗って高知市内まで行商に行くんですが、おかみさん達 の元気な声、そして干物特有の匂いに車内が包まれるんですよね。
また、ごめんでは安芸線からの乗り継ぎがある高知市内行き電車は、車内に収まりきらないほど多くのお客さんが乗っていたこともありました。昭和の懐かしい記憶です。