高知の城下の歩き方
高知市の中心市街地を歩いてみると、今も息づく江戸時代の城下町の文化を見つけることができる。
郭中エリア
案内してくれたのは、高知県立高知城歴史博物館 副館長 横山 和弘(よこやま かずひろ)さん
山内家の家来である 武士たちが暮らした場所 現在の市街地の ルーツもたくさん!
「郭中(かちゅう)」とは、藩主である山内家を支えた武士たちが暮らしていた場所の名称で、現在の追手筋や帯屋町などの繁華街がある、まさに中心エリア。江戸時代は高知城を中心にたくさんの武家屋敷が立ち並んでおり、お城に近づくほど格上の武士が住んでいて、屋敷も広かったのだという。案内人を務めてくれた横山さんは、「例えば、現在のひろめ市場がある区画には、『深尾家』という家老の屋敷がありました。最も格の高い家臣だったので、一つの家だけであれだけ広い一等地を占めていたんです」と言う。現在の繁華街とは異なるやや格調高い印象の郭中だったが、実 は追手筋や帯屋町といったまちの名称が生まれたのもこの時代。「現在、日曜市でにぎわう追手筋は、もともとは大門筋(おおもんすじ)という名前。18世紀半ば、大火で焼け落ちてしまった高知城を再建する際に、あわせて現在の「追手筋」に名前が改まったようです。再建されて今も残る高知城と追手筋という名前は、実は同じタイミングで生まれたんですよ」。
武家文化の中心地
ひろめ市場の名称は、同地に土佐藩の家老、深尾弘人(ひろめ)の屋敷があったことにルーツがある。ちなみに弘人は通称で、本名は蕃顕(しげあき)さんなのだとか。すぐ裏手の追手筋では、江戸に向かう藩主を家臣たちが見送っていたという。
武家の名がひしめく古地図
19世紀初頭頃の郭中。武家の屋敷が立つ区画の間には、すでに「追手筋」や「帯屋町」の名前もある。帯屋町筋(御屋敷筋(おやしきすじ)とも呼ばれた)は、郭中で最も長い目抜き通りだった。
下町エリア
教えてくれたのは、ひまわり乳業株式会社 社長 吉澤 文治郎(よしざわ ぶんじろう)さん 。
多様な町民が集まった水辺のまち 古い町名や街路ににぎわいを感じる
現在のはりまや町周辺に広がっていた「下町(しもまち)」は、職人や商人が多く暮らしていたエリア。「土佐の歴史散歩の名人」と名高い吉澤さんは、「下町は、多様な場所から集まった町民たちでにぎわっていた、水辺のまち」だと言う。下町にあった古い町名をひもとけば、京都の商人が移り住んだ「京町」のほか、かつては山内一豊の旧領地だった掛川(静岡県)の職人たちが住んだ「掛川町」、かつて土佐にあった浦戸城や山田城などの城下町から町民が移り住んだことにちなんだ、「浦戸町」や「山田町」なども存在していた。そして、それらをつないでいたのは、小舟が行き交う水路だっ た。「現在は浦戸湾から『かるぽーと』の前まで流れている堀川ですが、当時はさらに先の今の『高知大丸』や廿代町(にじゅうだいまち)辺りまで繋がっていたんですよ」。親水公園のつくりをしている「はりまや橋公園」も、以前は本物の川だったのだ。当時を想像しながら、古地図を手に小舟に乗ったつもりで散策してみるのも楽しい。
人や物が行き交った川の交差点 城下町の東の中心地に
高知市九反田や菜園場町を見る交差点は、当時は、堀川と新堀川がクロスする川の交差点だった。城下町の水辺の玄関口であり、食料や木材、商品といった物流の要所になっていた。
江戸時代の堀川をたどって歩く城下町散歩
「水辺こそ庶民の文化がにぎわう場所」と話す吉澤さん。江戸時代後期の古い絵巻には「播磨屋橋(はりまやばし)」も描かれており、その下を小舟が進む堀川が流れている様子がわかる。はりまや橋公園には、明治期にあった鋳鉄製のはりまや橋も残されている。
上町エリア
教えてくれたのは、土佐観光ガイドボランティア協会 川上 隆幸(かわかみ たかゆき)さん。
歴史ファンも訪れる 城下町文化が残るまち 坂本龍馬を生んだ 町人たちの足跡
城下町の「上町(かみまち)」エリアは、現在も高知市上町としてその名を残している。まちを歩くと道路が東西南北にまっすぐと引かれていることがわかるが、これも江戸時代につくられたもの。上町は、武家に仕える奉公人をはじめ、商人や職人など、城下町の人口が増えたことで土佐藩によって計画的に整備された。幕末、坂本龍馬が生まれ育った場所でもある。そんな上町で見かけるのが、観光客を案内するボランティアガイドの姿。ガイドの一人の川上さんによると「龍馬さんが好きで、観光客と交流したいとガイドになる方も多いですね」とのこ と。今回案内してくれたのは、当時の町民のエネルギーを感じられる場所。「上町には『築屋敷(つきやしき)』という場所があって、これは藩ではなく町民が自分たちで新しく開発したまち。上町には、制度上は低い身分とされても、高い才覚や発想力、財力を持つ町民たちがいて、それが龍馬さんのような時代を変えた人物を生み出していったんだと思います」。
商人の仕事場の足跡を 感じられる場所
江ノ口川と接した公園。「車瀬」という名前は、江戸時代、江ノ口川に水車をかけて綿実(めんじつ)から油を絞っていたことに由来する。子ども時代の龍馬も、この場所で遊んでいたという。
上町の町人たちが自力でつくったまちを眺める
鏡川にかかる「月の瀬橋」から上町を見る。河川敷沿いにある場所が旧築屋敷。周辺を歩くと、堤防の外側に石垣を積んで住居の基礎がつくられていることがわかる。