美しい仁淀川が、雨で姿を変え 津波のような水流となって日高村を襲う。 そんな時代があった。 水と暮らし、水と闘い続けて300年。 日高村の長い長い“まちづくり”に触れる。
住み慣れた村に 舟で乗り出したあの夏を
僕はよう忘れん
昭和50年8月、台風5号による大洪水により、日高村を未曽有の水害が襲った。当時、村の消防団に所属していた浜田さん(当時36歳)は、土砂崩れの対応で役場まで舟で移動したという。「家屋は2階まで浸水、平屋の姿はどこにもない」、そんな信じられない光景が、今も浜田さんの目に焼き付いている。
古くから日高村は水害が発生しやすい地形で、増水した仁淀川から大量の水が逆流してくる現象に、村は長く悩まされた。浜田さんも消防団員の方々と水門に土のうを運んで奔走したが、強大な水の力に何度も無力感を覚えたという。浜田さんは「日高村の治水対策は試行錯誤の繰り返し。それくらい難しい土地柄で、長い時間をかけてさまざまな仕組みや、施設が造られてきた」と時代を振り返る。
度重なる河川改修、新たな水門やトンネルの建設、そのどれもが、今、日高村の暮らしを守るために機能している。
昭和の台風
300年を超える水との闘いの歴史
犠牲となった日高村
日高村の水との闘いは、仁淀川下流の穀倉地を守るべく八田堰(1652年)、鎌田堰(1655年)が築造されたことに始まる。そもそも日高村を流れる日下川は勾配が極めて少なく、水の出口も一カ所のみと、本流からの逆流に弱い構造であったが、堰の築造により、その唯一の出口にあたる仁淀川の川床が上昇したことで、さらに逆流しやすくなってしまった。
結果、穀倉地を守ることと引き換えに、日高村は毎年のように浸水するようになり、台風・大雨の後は約3日滞水、平時から「高いところに舟を置く」といった風習なども生まれた。しかし一方で、湿地を生かしたコリヤナギの栽培・加工などが盛んに行われるようになるなど、村民は土地に沿い、水の恩恵を受けながら生きようと工夫した。
日下川の喉元は、水の神々への信仰を表して「神母(イゲ)」と名付けられ、数多の治水施設の築造が繰り返されていくようになる。
治水対策
仁淀川の逆流を防ぐために築造された「神母樋門」。日高村水害史を象徴する構造物で、現在の樋門は、大正時代に完成した初代から数えて3代目にあたる。
水との闘いを 乗り越えた
水と共生するまちづくり
現在、日高村の治水施設には、仁淀川の逆流を防ぐ「神母樋門」、日下川の水を途中から流す「放水用トンネル」、溢れる水をいったん止める「洪水用調整池」があり、水を「とめる・ながす・ためる」強固な3本柱として村の暮らしを守っている。
日高村を代表する「シュガートマト」も、実は水に弱いデリケートな作物だが、治水施設の登場や河川の改修によって安定した農地が生まれ、昔は定着しなかったさまざまな一次産業も、近代になって村に登場するようになった。日高村が目指したのは、自然を力でねじ伏せる「開発」ではなく、自然に沿いながら暮らしの安全と産業を支える「まちづくり」。
そしてそれを支えるのは、過去の教訓と、現代の人智を結集させた治水の技術にほかならない。村の至る所に目を向けると、治水の足跡が見えてくる。そこを歩き、学び、楽しむ。そんなインフラツーリズムを、これからの日高村のトレンドにしようと、新たな動きも始まっているようだ。
産業の発展
日高村にたまった水を流す「放水用トンネル」。昭和36年に最初の放水路、昭和57年に2つ目の放水路が完成し、水害の件数が大きく減少した。
水害に強いまちへ!
観光もできる新規放水路が登場!
現在、掘削が進む第三の放水トンネルは延長5.3㎞、直径約7mと大迫力! 入り口一帯はインフラツーリズムの活動拠点を兼ね備えた施設として整備が進んでおり、完成後はトンネル内の見学をはじめ、バギーでの走行体験などもできる予定だ。