黒潮がぶつかる高知県西部。黒潮を切り裂くようにせり立つ足摺岬。
海の荒波にもまれ、魚と格闘する漁師たちの今とこれからに迫った。
海と共に生きる――土佐の漁師の生き様
黒潮が接岸する叶崎を臨む小さな港。自然が創りだした穏やかな湾の外に太平洋が広がっている。大月町小才角は、黒潮に乗って北上するカツオの通り道にある。
小才角の歴史をまとめた浜口芳昭さん(70)によると、ここに住む人々は、江戸時代初期から小さい手漕ぎの船で沖に出て、カツオを釣って暮らしていた。カツオだけではない。冬はサバ、春はメヂカ(※)、夏はスルメイカ。フノリやトコブシや伊勢エビと、年中様々な魚貝類が獲れた。さらに、沖合は宝石サンゴ国内第一の漁場で、サンゴ漁発祥の地として知られている。
豊かな海に支えられ、1950年頃は800人ほどが暮らしていた。次第に、大型船に乗る人が増え、漁村に生まれた男子の半数が中学校の卒業式を待たずにカツオ船に乗り、遠洋航海に出た。給料は陸で働くのとは比べものにならない。1年船に乗ったら家が建つとも言われた時代、世界の海で稼ぐ漁師は子どもたちの憧れの的だった。待遇のいい機関士、航海士などの役職を得て船に乗れるよう、進学して船に乗る人もいた。
小才角の漁師の家に生まれた新谷良彦さん(60)は土佐清水高校漁業科で海技免状を取り、卒業と同時にインドネシアで操縦するカツオ船に乗り込んだ。「黒潮の源流、赤道直下やけん、ぴっと(※)港を出たらすぐカツオがおる」。1年近くの航海の合間に国家試験を受け、22歳で初めて船長として10か月の航海に出た。任期が終わり帰郷した時、次の船に乗るまでのつなぎに、父の船で漁を手伝った。
5トンの釣り船に親子2人。春は曳縄という漁法でカツオを釣った。船を走らせながらヒコーキとカブラという疑似餌のついた糸を流し、カツオが食いついたら糸を手繰って釣り上げる。「パッパパッパ手を早う動かして釣る。ほんできれいに釣り上げたら魚もきれいで値がえい」。船の上や水槽の中でカツオが暴れると戦い傷ができるが、傷のない光った魚は味もいい。「漁師いうたち、経験がものをいうけんね。朝は釣れんでも、粘ったら昼を過ぎて釣れる時がある。荒海の中、頭から潮水バンバンかぶって魚を釣ったもんよ」。
一日に30、40万円の魚を水揚げする大漁の日もあった。「あちこちにカツオのナブラ(※)がおったよ。遠洋に出んでもようけ獲ってお金になる。これが一番おもしろいし、元気が出てくる」。結婚し子どもが生まれた32歳、自分の船を手に入れた。それから一人、海に出るようになった。
船を造って数年経った1990年頃、海に変化が現れはじめた。黒潮に乗ってカツオが来ても、あくる日は姿を消している。「黒潮が来てもカツオがつけて来んなった」。その原因はカツオの獲りすぎと言う。南の海ではヘリコプターを飛ばして空からナブラを見つけて船へ連絡し、巻き網で一網打尽にしている。
環境の変化もある。国道沿いにひらひら揺れる一日干しのスルメイカは小才角のお馴染みの風景だったが、最近は見かけることが少ない。「港の前の漁場に全然来んなったんよ。たった1℃水温が上がっただけで、北の海へ行ってしもうた」。
さらに、「外国産の安い魚が食卓に上り始めると、サバやアジなどの値が落ちた。養殖ハマチの価格が暴落し、稚魚を獲る漁師も船を降りた。
魚を市場に揚げても、燃料代や手数料が引かれると1〜2万円しか残らない月もあった。船のローンが払えず生命保険を解約して払ったことも。「魚が獲れん。お金にならん。どん底やった」。
そんな時、宝石サンゴに助けられた。1980年頃のブームより値は下がっていたものの、漁に出ればいくらか穫れた。「強い風が吹きよっても、やっぱり漁師やけん、海に出んといかん」。新谷さんは魚を釣り、サンゴを獲り、娘3人を学校にやりながら、漁師をなんとか続けることができた。
2010年頃からの台湾や中国のサンゴブームは高知の漁村にも伝播、以前のブームよりも値が跳ね上がった。「陸で働きよった人らがにわか漁師になったけんど、サンゴが獲れんくなったら辞めていくと思う。魚を釣るという事は腕やけん」。
魚がいない。値が落ちて漁が成り立たない。海が変わり、漁師も変わった。このままでは、高知で獲れた魚が食卓に上らなくなってしまう。「魚を釣るのが好き、という人は漁師に向いちょう。けんど、若いもんに漁師になれとはよう言わん」。
土佐弁講座
※メヂカ=ソウダガツオのこと。高知県方言辞典によると、ジとヂ、ズとヅを区別することは土佐方言の最大の特色とある。本誌では「メヂカ」の表記に統一した。
※ぴっと=少し、ちょっとの意味。
※ナブラ=魚の群れのこと。
漁師を育て、増やす――土佐清水市漁師研修制度
午前3時。冷たい風を受けて船を出す。土佐清水の立縄漁師の朝は早い。夜明けと同時に食いつくサバを一尾でも多く釣り上げようと、サバが回遊する沖合に仕掛ける。「夏の日の出が早い時はねゃ(※)、午前1時に船を出す」と言う問可柾善さん(70)は40年あまりサバを釣ってきた。「獲れたてを沖で捌いて、黒潮の潮水で洗うた刺身は最高」。漁師だけが知る味を陸の人にも届けようと、1992年、土佐清水漁協はサバを活かしたまま水揚げする「活魚」を始めた。
大阪で理容師をしていた多田佳司さん(48)。父の故郷・土佐清水で子どもの頃に遊んだ海が忘れられず、「いつか清水で」という思いを募らせていた。ある時、テレビで漁師研修制度を知り、すぐさま県庁に問い合わせた。1週間、船に乗り漁師を体験したことで、「床屋も漁師も自分の腕一つで稼げる仕事」と確信。漁師になろうと決めた。2009年のことだった。
土佐清水に移り住み、長期研修生として船に乗る生活が始まった。「いろんな漁師さんの船に乗ったけど、問可さんは一番厳しい。でも、職人の世界で厳しくしてくれることの意味を知っていますから」。問可さんと操業中、海に落ちたこともあった。「幸い凪の日やったんで、自分で泳いで船に戻りましたけど、漁師が船から落ちるのは死ぬのと一緒」。
月に20日以上研修を行うと生活支援費が出る。「どうせすぐ辞めるのに」と、やっかみを言われて悔しい思いをした日もあったが、1年8か月の研修を経て、漁師になった。生活費をギリギリまで削り、2012年、5トンの釣り船を中古で買った。
漁師になって初めての夏、メヂカ漁に出た。おもしろいように次々と食いついて、結果2トン300キロ。「港に帰ってきた頃には船が下うて(※)、船に穴でも開いたかとビックリされた」。港で隣に船をつないでいる坂井厚之さん(47)は3トンの記録を持つ通称・メヂカの神様。「僕の記録を早く塗り替えてや。漁師は努力した分、返ってくる仕事やき」。年齢が近くサラリーマンの経験もある坂井さんの言葉に励まされた。「あんながを経験したら、漁師はやめれん」。
多田さんが漁師になった頃から、サンゴの値が高騰し、例にもれず土佐清水の漁師の多くがサンゴ漁に転向した。ピーク時に200人近くいた釣り漁師は徐々に減少し、サバを釣る漁師は現在22人。「この先ずっとサンゴを獲り続けられるかといえばそうではない。ゆくゆく残っていくのは魚。今は一所懸命魚を獲って、その方法を見つけるのが最優先」。漁師が減ったのは、逆にチャンス。陸から漁師が生まれている。
土佐弁講座
※ねゃ=ねぇの意味。男性がよく使う言葉。
※下る=船が沈むこと。
漁師は陸でも戦える――沖の島水産
宿毛沖に浮かぶ沖の島。黒潮と瀬戸内からの潮流に挟まれた好漁場で、漁師だけでなく磯釣り客も足しげく通う。
荒木啓弘さん(34)は沖の島で生まれ15歳まで過ごした。進学を期に島を出て宿毛市へ、大阪の大学を卒業した後は沖縄でダイビングの仕事をした。25歳で故郷に戻ったが、島には仕事がない。漁師を継ぐ気はなかったが、父が船首を務める龍神丸に漁師として乗り込んだ。冬場は宿毛湾でブリを釣り、春と秋はカツオを追って日本列島を北から南へと操業した。
千葉沖でカツオ漁をしていた時のこと、時化で漁が休みになり東京に遊びに出た。たまたま立ち寄った新宿伊勢丹の物産展の会場で、真空パックされたカツオのたたきが売られていた。1キロ4千円!!
それを目にした荒木さんの中で何かがぷつっと切れた。「自分らが釣ったカツオを市場に揚げてもキロ200円。頭や骨の重量を差し引いても、10倍以上の価格。バカバカしい」。しかも原油は上がり、魚価は下がる一方。カツオ漁師は1、2か月船の上で寝起きし、家には帰れない。「このまま船の硬いベッドの上で一生を終わりたくない」。
キロ200円のカツオを100トン仕入れたら2千万。その半分の50トンをキロ4千円で売れば2億になる。「自分たちで商売ができる!」。荒木さんは29歳で船を降り、「うまくいくはずない」という父の反対を振り切り「沖の島水産」を立ち上げた。龍神丸が釣った魚を、量販店に直接卸す。加えてブリのふりかけやたたきなど加工品を作った。「漁師はカツオやブリの最高の味を知っている。自分たちなら、その味に近づけられる」。妻と友人と3人、6畳一間の狭い加工場からの出発だった。
漁師発の取り組みはテレビや新聞にも紹介された。テレビに出た次の日は、すぐ加工できるよう準備し、電話の前で3人で待機した。しかし電話が鳴ったのは数回。最初の3年間は大赤字だった。
待っていてもしょうがない。冷凍車に商品を詰めて商談会や物産展に出向いた。「売れないと思っていたカツオのたたきが予想外にうけた」。一本一本藁で焼いたカツオのたたきの味にファンが広がり、4年目でなんとか黒字になった。「沖の島水産のお客さんを1万人に」。将来のビジョンも定まった。
居酒屋とも取引が始まり、2014年はカツオ110トンを出荷。スタッフも10人に増えた。年間300日以上は全国の催事に商品を並べている。「島は働く場がなく、外に出て経験を積める機会も少ない。加工、販売、飲食、知らなかった世界に、魚で打って出る。こんなにおもしろいことはない」。2015年秋、大阪のイオンモールに直営店を出すことが決まった。
魚がいないならつくればいい――山崎技研水産事業部
エメラルドグリーンの海を求めて国内外から海水浴客やダイバーが集まる大月町柏島。マグロ養殖発祥の地として知られ、丸々と太ったマグロが今も水揚げされる。観光客の減った冬の湾は、四角や丸のブイが無数に浮かぶ様子が目立つようになる。
「おばちゃん、魚はエサ食いよう?」と声をかける平岡真さん(28)。香川県小豆島出身、高知大学の栽培漁業学科を経て、山崎技研水産事業部4年目の社員だ。柏島に暮らす80代のおばちゃんは「このとおりよ」と答えて手で粒状のエサをまくと、5㎝ほどのタイの稚魚がわっと水面に波打った。
工作機械を製造する山崎技研。環境汚染と魚の獲りすぎで魚が減ったことを危惧した創業者の「魚を作れ」の言葉をきっかけに、1972年に須崎市に養魚場を開設。試行錯誤を繰り返し、1990年代から安定的に稚魚の孵化ができるようになり、マダイやシマアジ、カンパチの種苗生産を手掛けている。
須崎市浦ノ内の陸上水槽で親魚を飼い、卵を採取し、孵化して4㎝ほどになるまで水槽で育てる。夏は浦ノ内、冬は柏島の湾内でおよそ8㎝まで育て、養殖業者に出荷する。現在、国内で流通しているマダイのうち8割が養殖魚であり、山崎技研が孵化した稚魚は全国シェア1位を誇る。
平岡さんは入社1年目の冬に柏島に赴任した。魚の出荷や選別する日はベルトコンベアで運ばれてくる何万尾もの魚を確認して、病気や品質基準以下の魚を一尾一尾手で取り除く。「海で稚魚を育てるので、水温も風も、直に影響を受ける自然が相手の仕事。ちょっとした判断ミスで魚が病気になって死んでしまう」。毎朝欠かさずスマホで天気予報と波の様子をチェックし、事務所の前で海水を汲み、水温や塩分濃度を測る。魚の色やエサの食い方、触った時の感触。病気の前兆を察知し、薬をやって未然に防ぐ。「魚はしゃべりませんが、なにかしらサインがあるんです」。魚に接して、海の上でも陸の上でも走り回る毎日。養殖業者から「今年の魚はえい!」と言われる、病気になりにくく、餌付きのいい魚を一尾でも多く育てることが目標だ。
一日の仕事を終えた平岡さんは、アオリイカやアジを釣るのが楽しみ。釣った魚は、自ら捌いて食べるほか、干物にして友人に配る。「食べる事って幸せなんで」。
2014年、山崎技研は世界的に資源減少が叫ばれているものの、需要は年々高まっているクロマグロの人工種苗にも着手。平岡さんは稚魚の飼育を担当した。タイと違ってマグロは孵化する確率や稚魚の生存率が極めて低く、幼魚を釣って育てる養殖よりもハードルが高い。エサを食べず、すぐ弱るため、炎天下で付きっきりで世話をした。
「食卓でおいしいと喜ばれる魚を育てられたら、養殖業界もきっといい方向にいくと思うんです」。2年目を迎えるクロマグロを成功させたい、養殖の技術を高めて魚を少しでも増やしたいと意欲を燃やす。