今も息づく城下町文化 お城が見守るまち

今も息づく城下町文化 お城が見守るまち

今から400年以上も昔の江戸時代に、 この地につくられた高知城と城下町。 時代が下って人や建物は姿を変えても、 まちの形は驚くほど受け継がれている。 今回の特集では、今も残る 「城下町文化」をご紹介します。

街中から見上げると 目線の先には高知城!
市街地のいたるところからお城が見えることは、高知市民にとっては日常的だが、実は全国的にはとてもめずらしいこと。「お城とまちの近さ」は、高知らしい文化のひとつだ。

高知のまちは高知城とともに 江戸時代から続く暮らしの文化

教えてくれたのは、高知城歴史博物館 資料学芸課長 藤田 雅子(ふじた まさこ)さん

「高知市で暮らしていると、江戸時代の城下町から変わらず残っているところも多いと感じる」と話すのは、高知県立高知城歴史博物館で資料学芸課長を務める藤田さん。今の高知市街地の決定的なルーツは、慶長6年(1601年)に土佐国藩主となった山内一豊(やまうちかつとよ)が整備していった、高知城とその城下町だ。高知城の周辺に武士が移り住み、その生活を支えるために、奉公人や生産者、職人、商人たちが住むまちがつくられていったが、その当時の町割り(都市計画)は、今も大きく変わっていないという。 「高知城は当時の政治や行政を担っていた場所だったけれど、今もお城がある丸ノ内には同じように県議会の議事堂や県庁がありますよね。追手筋などのメインストリートには学校や病院といった公共施設があって、その裏路地には、繁華街や商店など、庶民の暮らしのエリアがある。そのちょっとごちゃっとした街に足を踏み入れると、なんだかわくわくしてきたり。お城を中心にして『ここにこういうものがあると便利だよね』といったまちの根本となる機能とか、江戸時代からの町人街の感じ方って、変わったようで変わっていないなと思いますね」。

江戸時代後期の「土佐年中行事図絵」(高知県立図書館蔵)。にぎわっている歳暮の夜店の様子。

古地図をひもとけば高知のまちの姿がそこに

北は江ノ口川、南は鏡川を天然の水堀として整備された、高知の城下町。川と川に挟まれた山にあることから、高知城は当初「河中山城(こうちやまじょう)」という名称で、これが現在の「高知」の由来となった。

慶安5年高知廓中絵図(高知市立市民図書館蔵)

地図中の今と昔

A  高知城 周囲を堀に囲まれた部分が高知城。現在はお城を含む「高知公園」や、さまざまな県立施設がある。

B  郭中エリア(6ページ) 藩主に使える武士たちの屋敷があったエリア。追手門の門前には、道幅がやや広い「追手筋」が既にこの時代にあったことがわかる。

C  下町エリア(7ページ) 現在の高知市はりまや町周辺。各地から町人や職人が移り住んだ港町で、「城下町の台所」としてにぎわっていた。

D  上町エリア(8ページ) 現在の高知市上町周辺。下町とは対照的に、武家に召し仕える奉公人たちのまちとして整備され、後に職人や商人も暮らした。