「高知が生んだもうひとりの植物学者」。 牧野富太郎と並んでそう称される 田村利親の存在を皆さんはご存知だろうか。 今日まで根付く高知の柑橘(かんきつ)文化は、 日本各地で柑橘を研究し、柑橘を心から愛した、 田村なくしてはなかったと言える。
「柑橘で土佐を豊かに」
その思いで 全国各地で柑橘を研究
柚子や文旦といった柑橘類の果物は、高知県民にとって生活の一部といっても過言ではない。そんな高知の柑橘文化をひもといてみると、そこにはある植物学者の存在が浮かび上がる。歴史にその名を刻むことができなかった柑橘研究者、田村利親だ。
田村利親は、安政3年(1856年)、現在の香美市土佐山田町の名士で篤農家(とくのうか※)のもとに生まれた。「日本を近代国家に」という声がとどろく時代。田村もまた「柑橘で農家や地域を豊かにしたい」という志を抱き、日本各地の柑橘類の研究を始めた。そして、それぞれの栽培方法や商品価値などを探り、また有望な品種は生家の果樹園で実際に栽培し、その苗木を県内各地に広めていった。
中でも代表的なものが小夏だ。高知で小夏栽培が広まったのは、若き田村が宮崎県でこれに出会い、その苗木を父親の果樹園で増やしたことが始まりとされている。さらに田村は小夏に「ニューサンマーオレンジ」という名前も付けた。これは、小夏の海外への輸出を見据えて命名したものだ。
後に田村は、自らの柑橘研究の集大成として『日本柑橘全誌』という著作を出版しようと試みていた。実は幼少期から親交があった牧野富太郎もそれに協力していたが、実現することはなかった。
田村を深く尊敬していた牧野博士は、「名前は有名でなくても中身が出来上がっている人」だと田村に言葉を送っている(右上の写真の書)。東京大学総合図書館には今も、未完となった『日本柑橘全誌』の膨大な原稿や資料が残されており、田村が抱いた柑橘への情熱と、その功績が広く知られるようになる時を待っている。