Posted on 2014.09.24

家業を継いだあの人 せがーる No.8

坂本農園 坂本香さんこの風景を残したい

高知の山地はお茶の産地。
自分にできることを探して、茶畑を残そうとしている。

せがーる、坂本農園の坂本香さん

 四万十川の源流地・不入山のある津野町は、寒暖の差があり、霧の立ち込める山深い場所。ぐねぐねした道に車を走らせると、山の斜面に茶畑が現れる。「この山の自然な曲線に沿ったお茶畑は、ほんとうにきれい。お茶の木を刈り込む度に爽やかな茶葉の匂いに包まれて、夜は満天の星空が広がる」。茶業を継ぐことを決意した坂本香さん(34)は、「だから、ここで」と笑った。

父が拓いた茶畑

 旧・東津野村は古くから山茶が自生し、江戸時代に中国地方や九州へ出荷された記録もある。1959年頃から村の農協は茶生産に本格的に取り組み始めた。当時、村の現金収入といえば、コウゾやミツマタなどの紙原料くらいのもの。新しい産業をおこそうと村の気運は一気に高まった。
 香さんの父・延夫さん(70)は、18歳の時、村の人に誘われ茶業伝習所で茶の生産と製造を習った。お茶栽培に可能性を感じ「うちの畑を茶畑にさせてくれ」と家族に訴えるも、「コウゾ、ミツマタで生活できちゅう」と許しが得られず、しかたなく最も不便な10aの段々畑にお茶の木を植えた。それから土地を買い足し、萱が生い茂る急斜面の荒地を鍬で耕し、30歳になる頃は茶畑を2.3haまで増やした。


とさぶし8号せがーる、坂本香さん幼少時代

1960年代の茶畑。茶葉を手で摘み取っていたため、最盛期は何十人も人が働きにきて、お昼は畑でお弁当を広げた

とさぶし8号せがーる、1970年代の津野町の茶摘みの様子

1970年以降、茶を刈る機械ができて、収穫が楽になった。   最盛期は、一番茶、二番茶、三番茶まで摘んで出荷していた。 茶摘みを手伝う小さな女の子は、香さん。

茶畑で育つ

 お茶に没頭する延夫さんは、末娘が生まれると迷わず「香」と名付けた。幼い香さんの遊び場はいつも茶畑。父について畑に行き、兄や姉と朝から晩まで畑を駆け回った。「私が生まれて半年後に母が亡くなり、父は腹巻に哺乳瓶を忍ばせて私を育ててくれたがです」。  
 寝る間を惜しまず働く父の姿は、香さんの目に焼きついた。毎日、朝早くから畑で茶を摘み、茶葉を工場に運び夜中まで荒茶の加工作業。新芽を摘むタイミングを見定めたり、新鮮な茶葉を丁寧に蒸したり、より香り高いお茶を目指して工夫を重ね、県内外の品評会で何度も受賞した。
 荒茶の買い取り額は1kg 5千円の高値をつけ、1日分の出荷で100万円以上になることも。村の農協も茶の売上を伸ばし、1996年には1億8千万円を超えた。
 香さんは中学、高校に進学しても、茶摘みシーズンは仕事を手伝った。「私はお茶農家の娘」、香さんの意識に染みついた。

体の変化

 父を助けて家族の食事を作ることも多く、料理をすることが好きだった香さんは、24歳頃からパン屋や洋菓子店で働くようになった。しかしある日、いつも食べているパンに妙な味を感じた。周りから洗剤や化粧品の臭いが漂ってくると息が苦しくなる。
 小さい頃から、畑にいくと体がしんどくなったり、体にブツブツができたりするのはしょっちゅう。病院で検査をしても原因はわからず、「手先や足先がいつも冷たくて、しもやけもひどかった。アレルギー体質やきしょうがないと思うちょったがですよね」。体重は落ち、仕事に行くことが難しくなってしまった。同じような症状に悩む友人の勧めで病院に行くと、化学物質過敏症と診断された。
 思い返すと、畑では農薬散布が盛んに行われていたし、新芽が芽吹きだした春先は霜が降りないようにお茶の木に寒冷紗をかけ、その横で廃材やタイヤを夜通し燃やしていた。ひょっとして、と不安がよぎった。

お茶の危機


とさぶし8号せがーる、坂本農園の茶畑

まず目で色を確認して、次に香りを嗅ぐ。 最後に一口含んで、味をみる

 お茶を取り巻く環境に変化が起き始めた。全国的にお茶を淹れて飲む家庭が減り、茶葉とペットボトルの茶飲料の売上額が2005年に逆転した。さらに産地表示の義務化で静岡や京都に出荷していた茶葉の販路が激減し、お茶の価格はピーク時の1/3まで下落。この50年で村のお茶農家は85戸から40戸へ半減し、75haあった茶畑もわずか29haに。美しい茶畑は荒れた。
 時を同じくして還暦を迎えた香さんの父は、茶畑の経営を弟に任せ、一切タッチしなくなった。香さんは、そんな父の姿に疑問を感じ、思いをぶつけた。「地域をよくしようとずっとお茶でがんばってきたのに、悔しくないが? せっかく広げて整備した茶畑がなくなってしもうてえいが?」。津野のお茶畑はどうなるのか、父がしてきたことは無駄だったのか、あきらめるしかないのか、答えを見いだせなかったが〝お茶農家の娘〟という意識が頭をもたげてきた。

私にできること


とさぶし8号せがーる、坂本農園のお茶

蒸した米に種麹をふりかけ、 麹菌を繁殖させる。

 香さんは無農薬や有機栽培などに関心を持ちはじめた。元々、家族が食べる野菜には、農薬や化学肥料を使っていない。それをお茶栽培にも生かせないかと、父や叔父と話すことが増えた。茶畑を管理する叔父は、虫や病気の害がひどい時だけ消毒をする低農薬栽培に少しずつ切り替えていった。
 玄米菜食で食養し、少し体が動かせるようになった香さんは、ある日、家の倉庫で驚いた。目の前に、コンテナ一杯の腐った生姜。「せっかく手をかけて育てたのに、もったいない」。採れすぎた野菜や果物をジャムにした。「素材そのものの味を引き立てるよう、イメージを膨らませて、ぼやけた味にならないように」。イベントや土曜市に出店し、味見をしてもらうと、「おもしろい!」。ジャムは毎週150本作り、味のバリエーションも増やし、県外のイベントに出たり、置いてくれる店を見つけたりと、順調に「常連さん」を獲得した。3年目、パン屋でアルバイトしていた頃と同じくらいの収入を得られるようになった。
 ふと考えた。「やれないことを無理やりやるよりも、やれることを探した方が早いかもしれない」。香さんは、お茶を飲んでもらえる方法を思いついた。


とさぶし8号せがーる、坂本香さんのオーガニックマーケット出店の様子

パソコンソフト「ペイント」で描いたラベル。ハンコを押したクラフトの蓋に、小さな蝶々結びのリボンでアクセントをつける。 「中華風キャラメル柿」「ミラクル・キウイ」「チャツネ」など不思議な名前のジャムがちらほら。同じ素材を使っても、「おもしろ味」を足している。


地に足をつけて


とさぶし8号せがーる、坂本農園のお茶ラインナップ

一番茶を摘んだ6週間後に二番茶を摘む。一番茶は、新芽の上の方を刈り取るため、どうしても摘み残しがでてしまう。二番茶の前に、新芽の残った葉と、親の葉を一緒に摘んだものを、津野町では「親子茶」と呼ぶ。

 2012年の春、香さんは新茶を真新しいパッケージに包んだ。付けた名前は「坂本農園」。栽培するだけの農家から加工や販売をする農園へ、自身の思いを込めた。津野町がアンテナショップを高知市に出店し、一番茶を摘んだ6週間後に二番茶を摘む。一番茶は、新芽の上の方を刈り取るため、どうしても摘み残しがでてしまう。二番茶の前に、新芽の残った葉と、親の葉を一緒に摘んだものを、津野町では「親子茶」と呼ぶ。
常にお茶を売る場を持てたことも背中を押した。「高級品ではなく、飲みやすくて、毎日飲めるお茶。ペットボトルのお茶を飲んでいる若い人がお茶を淹れてくれたら」。
 いつもジャムを買ってくれる常連さんもお茶を買い求めてくれた。「おいしかったよ」の声を励みに、少量パックやブレンド茶など、種類を増やしていった。「お茶を飲んでくれる人を増やすことで、茶畑が守れる」。家業を継ぐ、覚悟が決まった。
 晴れた日は、お客さんや友人を茶畑に案内することがある。一緒に畑を散策して、茶畑の風景を見ていると、「山茶を復活させたい」「津野のお茶を残していきたい」と意欲が湧いてくる。「いなかの生活も、自分の体調も、ちょっとばぁのうがわるいぐらいが、ぼっちり」。


とさぶし8号せがーる、坂本香さんと父

土佐弁講座

※のうがわるい=人の体の機能や生活における都合の良さを「のうがえい」「のうがわるい」という。頭が悪いことではない。
※ぼっちり=ちょうどいいこと。

  • share
  • tweet

Tag

トップページへ