Posted on 2014.06.24

特集

水辺の人々

森が育み、川が運び、海に流れる。
水の豊かな国、高知。
人は水辺に暮らし、遊び、ときに生計を立てる。
人は森、川、海と共に生きている。

川で働き山に暮らす


 ゴツゴツした岩が顔を出す川面へ。真っ白い水しぶきの中は、ジェットコースターさながら。ボートはぐっと傾き、テンションMAX!
 高知から徳島へ流れる吉野川は、急峻な四国山地の谷間を流れる暴れ川。早明浦ダムの放水も相まって、夏場も水が枯れず、大歩危・小歩危エリアは日本一の激流スポットとして名高い。  
 パドルを持ったお客さんを乗せて小柄な女性が舵をきる。「お客さんはエンジン、私が車のハンドルを握っているような感じ」。多田梓さん(27)は、大豊町を拠点とするハッピーラフトのラフティングガイド。「今が最高」と言い切る。


大地の爽快感に浸る


 多田さんは高知市の神田川が流れる田園地帯で生まれ育った。「田んぼに囲まれた小学校に通って、野球したり、鬼ごっこしたり。とにかく体を動かすのが大好き」。中高はバレーボールに打ち込んだ。しかし、将来の夢は見つけられなかった。高校を卒業して、薬局に就職。遊びたい、服がほしいで散財し、給料はあっという間になくなり、常にギリギリの生活だった。「朝から夕方までパソコンに向かう仕事で、夕ご飯を食べたらバレーボールの練習。忙しくて、退屈で、いつも不満で」。  
 憧れの北海道でスノボーをしよう。22歳の時、仕事を辞めた。畑が広がる留寿都(るすつ)村のリゾートホテルでアルバイトし、休日はスノボー三昧。夏場はニセコでラフティングの資格を取り、ガイドとして働いた。  
 2年後、高知に帰って驚いた。「スーパー銭湯、ドラックストア、ファッションセンター。バイパスにつながる太い道路が通って、好きだった田んぼの町じゃない。私が暮らすのはここじゃない」。大豊町岩原に本拠地を置くハッピーラフトの門を叩き、次のシーズンのガイドをしたいと相談した。

いい流れに乗って

 「OK!」と、オーストラリア人の社長・マーク。彼は10年前にこの地に住みつき、福祉施設の一部を借りてラフティングの会社を立ち上げ、国内外からユニークなガイドを集めてツアーを実施している。ここに住みたいなら役場に問い合わせてみたら、とアドバイスを受けた。ガイドの多くは世界を股にかけ、定住する人は少ない。しかし多田さんは標高400mほどの山の上に古民家を見つけた。「お風呂もトイレも外。でも、電気も水道も通って、携帯の電波も良好。それで、月5000円!」。畳を入れ替え、床を修理し、シンク台を作り直した。朝は鳥の声で目が覚め、縁側に座ってコーヒーを飲む。「ここにウッドデッキを作ったら寝っ転がって星や月が見える。畑にはハーブを植えてみようかな」。そよ風に吹かれ、次々とアイデアが湧いてくる。
 一緒に働くガイド仲間は、出身も前職も様々で、海外経験も豊富。仕事が終わった後は、川の話、旅の話に花が咲く。一杯飲もうと仲間が家に遊びに来ると、囲炉裏を囲んで語り合ったり、ギターを弾いて歌ったり。近所のお年寄りから野菜やイノシシやシカの肉をもらうとバーベキュー。アユを焼いて、漁師さんと日本酒を飲むこともある。地区のお花見の準備、稲刈りや天日干しは仲間と手伝いに行く。  
 いい仕事、いい仲間、気にかけてくれる地域の人。年収は200万円足らずだが仕事も暮らしも充実している。貯まったお金で、シーズンオフは海外旅行も楽しむ。「テレビもパソコンもない。でも時間がたくさんあるし、なにより気持ちの余裕がある」。



有限会社ハッピーラフト http://www.happyraft.com/

区切り線

川と遊び川と生きる

 「朝5時頃、友達と鏡川まで歩いて、ミミズ掘って、釣り糸を垂らしてハヤとかイダを狙って。それから朝ごはん食べて、小学校」。宮崎晃さん(41)は、鏡川がゆったり流れる高知市鴨部で生まれ育った。『釣りキチ三平』が大ヒットしていた頃で、同級生の男子で釣りをしない者はいないほど。30㎝のイダを釣りあげたら、通りすがりのおんちゃんが立ち止まって「大きいがを釣ったねえ!」。子どもながらに誇らしかった。
 夏休み、ズボンをまくって膝までザブザブと川に入り、砂利や茂みのある場所に網を落とす。父の仕事が早く終わった日は、車で上流の方へ一緒に行って、日が暮れるまで泳いだ。流れの速い浅瀬も自然と歩けるようになったし、少々流されても平気。川は自分を育ててくれた。



川を見る目が変わった


 時は流れて2007年。県外の大学を卒業し、高知市役所に入って10年が経った。市民税課から環境保全課に異動になり、久しぶりに足を運んだ鏡川はどこか違った。「魚やエビの影がない。泳ぐ子も釣りをする子もいない」。堰ができ、護岸工事が進み、このままいったら10年後、20年後は……。危機感から、目の前の〝今〟を記録しはじめた。  
 「こんなところに花が咲いている、あんな鳥もいる。カメラを持って山や川に入ると、いろんなものに気づくんです」。刻々と変化する自然を写真に残した。何度も通い、気をつけて見てみると、川で遊ぶ子どもの姿もある。もっと人が環境を意識して生活すれば豊かな川を取り戻すことができるかもしれない。「たくさんの人が暮らす県都を流れる川で、子どもが泳ぎ、遊んでいる。こんな川、他県にはない」。川に対する思いがガラッと変わった。  


 毎年恒例の家族とのキャンプも変わった。「川にどんな生き物がいるのか探すようになりました」。アユの友釣りをしたり、エビやカニ、虫の幼虫を獲ったり。車で上流へ20分も走れば、足元にアマゴが泳ぐ清流にたどりつく。「そんな近所にテントを張って泊まるなんて笑われるかもしれないけど」。4人の子どもを育てる父として、お弁当代だけで一日遊べる場所は貴重だ。

自分にできること

 ある日、「鏡川こども祭」の主催者が窓口にやってきた。縄手町のトリム公園で子どもが川に触れる機会を作りたいと言う。イベントを支えるのは鏡川流域のリタイア世代の人たち。水切り大会、いかだ下り、竹トンボ作り。婦人会はツガニそうめんを作って振る舞う。それぞれが得意技を持ち寄り、子どものために力を合わせる姿に刺激を受けた。イスやテントを貸し出す手配をし、上司や同僚と市のブースを設けて川の魚を水槽に泳がし、魚の穫り方のイラストをパネルにした。約1000人が集まり、展示も好評だったが、翌年、出納課に異動になった。「残念やねえ」。主催者の言葉が痛かった。  
 ふと考えた。親が川で遊んだ経験がないと、子どもは川で遊ばない。子どもが川で遊ばないと、川の変化に気づかない。イダ、ヨシノボリ、アユカケ、スズギ、テナガエビ、モクズガニ……。子どもたちの目の前のこの川に、いろんな生き物がいるんだよ。ただ、それを知らせたい。  
 異動して2年、「鏡川こども祭」の主催者に個人で企画を持ち込んだ。展示用の水槽を増やし、タッチプールを加え、『鏡川水族館』と銘打った。生きたまま展示するには、前日に生き物を獲る必要がある。なんとか12点確保でき、「幸運にもアユカケが獲れたんです」。石に化けて、近寄ってくるアユを食うアユカケは、めったにお目にかかれない貴重な魚だ。親は懐かしそうに、子どもは珍しそうに見つめる。
 タッチプールでは「痛っ!」と子どもの声。普段、川で遊ばない子が、エビやカニを掴もうとして鋭いハサミで挟まれる。「カニはこうやって持つがで」。そう教えると、子どもたちの目が輝く。当日、会場に集まった親子は2000人以上。「昔はこんな魚を獲りよったがで」「今度、釣りしにこよう」。参加した親の「また来年も!」という声に意欲が湧いてくる。


アユ

アユカケ


イダ


第1回の展示(写真左)から進化した鏡川水族館(中央)。子どもたちは興味津々。主催者は「こんなに人気がでるとは」と驚いた。

鏡川こども祭(高知ファンクラブ) http://blog.goo.ne.jp/kenkoukfc

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この海で生業(なりわい)をつくる


 「郵便局辞めて、一緒に塩を作ってくれん?」。吉田拓丸さん(31)は、高知市内で勤める3歳年下の幼なじみを飲みに誘って、思いを告げた。夢を実現するには、信頼できる人がどうしても必要だった。収入は、きっと減る。そう切り出すのに、ためらいがなかったと言えば嘘になる。答えは「わかりました」。即答だった。

子どもの頃遊んだ海で


 吉田さんは3歳の時、塩を作ると言い出した父と母に連れられ黒潮町佐賀にやってきた。国道から伊与木川の支流へ車で5分、夏は蛍が舞い込んでくる家。「大阪の市営住宅から古いトタン葺きの家に引っ越して、テレビもないし、いつも遊んでいた公園もない。僕んちビンボー」。あのショックは今も鮮明に覚えている。しかし、1か月も経つ頃には、山、川、海が公園以上の遊び場になっていた。  
 海で遊んでいると、自分の腕に白い粒が浮きあがっている。思わずなめた。「うまい! 塩なのに、なぜか甘みがある」。天日塩を作る父と母の仕事が腑に落ちた。自分も大きくなったら塩をつくる。それは自然な流れだった。  
 「小学生の時は、友達と一緒にその辺に落ちている木でイカダをつくって、海まで下って。海で泳いでベタベタしたら最後は川で締める」。中学1年生の時、10mの橋の上から飛び降りる通過儀式があった。「飛び込めなけりゃあ 〝男〟じゃねえ」。みんな高揚して競って川に飛び込んだ。京都の大学に進学してからは度々 〝海不足〟。「いてもたってもいられずに、日本海で素潜り」。時おり思い浮かぶのは、いつも高知の風景だった。「ヤドカリ潰してハゼ獲った海とか、初恋の女の子にフラれてしょげて帰った川沿いとか」。  
 自分が一人で食っていける自信がついてから帰ろうと、卒業して大阪のダイビング会社に就職し、インストラクターの資格を取った。

海水が結晶するように


原料の海水は、晴天が2〜3日続いた満潮の日、沖からの清浄な海水を汲み上げる。 すだれを垂らした採鹹(さいかん)ハウスで塩分濃度を濃縮させ、結晶ハウスの木箱に入れて天日干し。毎日108箱を攪拌して、結晶を一定の大きさにする。この間、夏場で約1か月。脱水して異物を取り除けば、天日塩のできあがり。

 ダイビングの腕に納得できた2009年、故郷に戻った。専売だった塩が自由化され、町内や県内で完全天日塩を作る人が増えていた。「せっかく大学まで行ったのに」と父に言われたが、これも修行と塩づくりに励んだ。
 父と母が作る天日塩は、ほとんど売り先が決まっている。その上、施設の老朽化で年々収量が減っている。自分が塩をやるなら、新しい製塩場を作って、販路も開拓して……。父に考えを伝えた。「このままの規模でいいし、おまえはダイビングで食えるやろ」。構想と説得に2年。父は重い腰をあげた。  
 「僕たち家族が天日塩で食ってこれたのは、黒潮町の海と太陽と風と人。そのありがたみを思うと、この町で」。溢れる思いを事業計画書に綴り、銀行に相談を持ちかけた。融資を獲得して、海がぱーっと見渡せる土地を手に入れ、製塩所を建てるまでにこぎつけた。毎月2人分の給与を確保し、さらに同じ額の返済もする厳しい目標を自ら掲げた。  
父母が創業した(有)ソルティーブの「土佐の塩丸」。新しい製塩場では、塩の直売の他、塩づくり体験(浴用塩のエステ付)も実施している。
 原料の海水によって、製塩場によって、世話の仕方でも、塩の味は変わる。数か月は気に入る味にならず、何度も塩を捨てた。「これだ」という味にたどりつき、新しい青いパッケージの「土佐の塩丸」が生まれた。 日中60℃にまで上昇する製塩場。2人は汗だくになり、塩の感触を手で感じながら攪拌を繰り返す。商品ができあがると、吉田さんは信頼できる相棒に塩場を任せ、売り込みに回る。道の駅やアンテナショップ、居酒屋など、新しい販路は10店ほどに広がった。まさに二人三脚。海辺に暮らし、海を生業にしようとしている。


(有)ソルティーブは製塩所によってやや風味が違うため、「土佐の塩丸」はパッケージを使い分けている。塩の直売の他、塩づくり体験(浴用塩のエステ付)も実施している。

左から、塩つぼをつくる「日常屋」の清藤弘晃さん(39)、塩丸のにがりで豆腐をつくる「まぁ坊豆腐」の志治誠則さん(35)、「ソルティーブ」の吉田拓丸さん(31)と下谷誠司さん(28)、塩と塩つぼを販売する「NPO砂浜美術館」の香庄謙一さん(35)。仲間と共に塩丸は広がっている。

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