Posted on 2017.06.24

移るんです 其の四

海外に賭けた水野 龍

土佐に来た人もいたが、出て行った人もいた。
「ブラジル移民の父」と呼ばれる水野龍の「雄飛」は、日本にブラジルとの友好、コーヒー文化をもたらした。

移るんです「水野 龍」
わたしは佐川生まれ。
水野家は深尾氏の家臣で、山内氏の土佐入国に一緒に付いてきたのさ。 佐川は今も「文教のまち」と言われるが、かつて深尾氏7代領主が郷校「名教館(めいこうかん)」を創設するなど、学問には熱心だった。
仲間には、牧野富太郎もいたよ。 大器晩成型? 当たってるかもしれん。72歳で子どもができたのもそのせいかのう。

 

異境に志を伸ばさん

 水野龍は1906年(M39)2月、後に「この夜こそは艱難(かんなん)の絶頂であった」と言わしめた4000m付近のアンデス山中にいた。チリ側の終点駅で降りた水野と船中で知り合った鈴木青年は、一歩誤れば谷底という石だらけの山道を闇黒(あんこく)の夜空に輝く青白い無数の星をライト代わりに、猛烈な寒さととてつもない恐怖に襲われながら歩く。目指すは、峠を越えた先のアルゼンチン最初の町・シユール。そこから再び汽車でブエノスアイレスへ、航路に換えてブラジルへ、という計画だった。 
 この日のことを水野は「一身を挺して初めて海外発展の意義に徹したかの感あり」と振り返っているが、「異境に志を伸ばさんとする我身(わがみ)」を支えたもの、それは「ブラジル移住」、そこでの「コーヒー栽培」だった。

 

新天地へ第一歩

 翌年(M40)、水野は再びブラジルを訪れ、サンパウロ州政府と移民契約を結び、1908年(M41)6月18日、781名が初めてブラジルの地を踏んだ。この時、水野は州政府と、コーヒー豆と補助金の提供、東洋における販路拡張の契約を結んだ。提供量は、当時の日本のコーヒー年間輸入量のなんと7倍。背景に、州政府が日本の優秀な労働力とともに、コーヒーの消費拡大を図りたい実情があった。
 50歳の水野は動く。1910年(M43)2月、数人で合資会社「カフェーパウリスタ」を設立(資本金5万)、社長に。政府の輸入許可に奔走する一方、当時カフェとして名を馳せていた「プロコプ」の視察へパリにも飛んだ。翌年6月には、大阪・箕面(みのお)に1号店を出店。その6か月後には洋館の銀座店が開店した。店にはプロコプを模した大理石のテーブルが置かれ、ブラジル国旗も下げられた。カフェーパウリスタを北海道から上海まで次々とチェーン展開していった。


第1回移民を運んだ笠戸丸 (ブラジル日本移民史料館所蔵)

日本の喫茶店のルーツ

 「このコーヒーには日本人移民の汗の結晶がしみ込んでいる」。水野はこんな言葉をよく口にした。恐らく移住者から辛い時に出た「こんな苦いものを作るためにはるばる来たのか」という嘆きを思い出すのだろう。水野にとっては、ブラジルコーヒーではなく日本人が作る「国産コーヒー」だったのである。
 この苦いコーヒーが日本を変える。それまでカフェと言えば、女性が接客するレストランに近く、高級なものであった。新しく登場した「パウリスタ」は、男性のウエイターがいて、おしゃれで開放的、しかも1杯5銭と他店より3分の1ほど安い。語らいや寛ぎを求めた文化人や学生の人気となり一気にカフェが大衆化し、パウリスタスタイルがスタンダードになった。
 と言うものの、当初はまだ女性に参政権がない時代で、客の大半は男性であった。ところが、2階には特別に「婦人室」が造られていた。本当にブルーのストッキングを穿いていたかどうかはわからないが、創刊を果たしたばかりの「青鞜(せいとう)」のそうそうたる女性メンバーがやって来た。カフェは大正デモクラシーを発信する、文字通り基地となっていった。


カフェーパウリスタ銀座店 (株式会社カフェーパウリスタ提供)


当時のチラシ (株式会社カフェーパウリスタ提供)

ブラジルを選んだ理由

 なぜ水野はいきなり「ブラジル」だったのだろう?
 アメリカへの移民が戦争の影響で難しくなりつつある中で、ブラジルが移民を求めている情報と出合ったことが一つのきっかけとなった。 
 もう一つは、名教館(めいこうかん)時代に尊皇思想に触れ、19歳の時には土佐で吹き荒れていた自由民権運動に飛び込み佐川の名殺(めいさつ)・乗台寺(じょうだいじ)で過激な演説をして40日間牢屋に入るなど、これと思ったら突き進む性格が挙げられる。
 さらに、23歳で慶應義塾大学で学ぶことになるが、文明開化、四民平等を唱えた大学創設者・福沢諭吉が海外雄飛を盛んに薦めていたこともあり、水野も海外へ目を向けることになった。また慶應では、「(慶應の)渡米組は何(いず)れも実業界に成功したので、後年水野の企画する凡(あら)ゆる事業の資金を担当して呉れた」(「略伝」)とあるように、水野の事業を共感する同窓生とつながりができ、まっ先に箕面に出店したのも後の阪急電鉄社長小林一三との話があったからと言われている。

ブラジルに渡った水野一家

 1922年(T11)、コーヒー豆の無償提供が終了、翌年関東大震災で店が全壊するという窮地の際も、水野の決断は早かった。カフェーパウリスタを人に譲り、1924年(T13)、パラナ州クリチバへ一家を連れて渡った。
 ブラジルでは水野は家族で農業をしながら、「土佐村建設」を目指したり、日本に帰国して高知県海外移住組合を組織したり、衰えぬ情熱で日本とブラジルをつなごうとした。そして、91歳でブラジルに骨をうずめた。
 ブラジルは現在、日系人が推定160万人と、世界で最も多い国となった。その基をつくった水野は、同じ海外移住であっても、定住と出稼ぎ、また国策の移民との違いを強調する。水野がブラジルで示した「真の拓人精神」とは、〝日本人の心を捨てずブラジル人に成りきる〟〝支配でなく共存〟だったのに違いない。

参考:「海外移民事業ト私」水野龍/「水野龍略伝」野田良治/「大和民草を赤土に植えた男」深澤正雪 ニッケイ新聞2011

 

Information 水野龍が創業したカフェーパウリスタのコーヒーは、銀座本店の他、佐川町の観光案内所・旧浜口邸(行ってみたい! 古民家SHOP)でも味わうことができる。

 


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