Posted on 2017.06.24

家業を継いだあの人 せがれ No.19

イ業・土佐表製造  野村 智仁(ともひと)さん 土佐表の名を残す

子どもの頃から身近にあったイグサ。
仕事を手伝い、先代の歩みを知り、伝統の「土佐」の品質に誇りを持った。

せがーる やまさき料理店 池本 自歩さん

 午前4時。野村智仁さん(21)がヘッドライトをつけて圃場(ほじょう)に向かうと、既にアルバイトの人たちが集まってきている。背丈ほどのイグサを機械で刈り、束にまとめて、トラックに積み込む。次第に辺りが明るくなり、一面に広がるイグサが青く反射する。「やっと朝日が昇ってきた」。これから炎天下のイグサの収穫作業が続く。

 


1970年頃の収穫風景。イグサ刈りは夏の風物詩だった。 『写真集 ふるさと今昔』(土佐市、1988年)より

イ業で栄えた地域

 日本の住宅に欠かせない、畳。原料となるイグサは高温多湿を好み、高知県の湿田にも古くから自生していた。江戸末期から現春野町で栽培する農家が現れ、副業として畳表の製造もする「イ業」が始まる。しかし潮風による先枯れがおこり、波介(はげ)川の豊富な堆積土に恵まれた土佐市へと徐々に栽培地が移った。1897年には土佐市に手織り織機(しょっき)が導入された記録も残る。


野村さん一家は、約10haの圃場を借り、連作障害が起きないようにイグサと稲を作り分けている。2016年は苗が不良で1.8haほどだったが、2017年は最も広い2.3haにイグサを植えた。休耕中に作る「岩戸米」はお米のコンクールの早場米部門で日本一になった。

 戦後、住宅需要の高まりと共にイ業は急拡大。土佐市の栽培農家は500戸を数えた。カマ1丁と苗さえあれば誰でも始められる上、高値で取り引きされ、「青いダイヤ」ともてはやされた。7月末から8月上旬の収穫期には、住み込みのアルバイトが田んぼに溢れ、労働者用の給食センターまでできたほど。地域一帯がイ業一色だった。
 かつて日本全国で栽培されたイグサは、九州地方や広島、岡山など徐々に主要な産地が形成された。高知県も頭角を現し、1971年には、生産農家2568戸、栽培面積775ヘクタール、生産額は22億円に達した。



イグサのサイクルは約2年弱。畑には苗になるイグサが年中植わっていて、毎年12月中旬から1月に田植え、5月に古い穂先を切って芽吹きを促進する先刈りをおこなう。水の管理や肥料やりをして、1か月ほどで1.5〜1.7mほどに成長する。背丈の高いイグサが台風で倒れてしまう前にと、7月中旬から2週間ほどハーベスターで収穫する。収穫したその日に泥染めし、乾燥させると畳の色になる。

 

栽培、製造、販売を一本化

 智仁さんの祖父・和喜(かずき)さん(90)は、1952年に福岡県イ業指導所に研修に出かけ、地元土佐市でイグサ栽培と畳表の製造を始めた。イグサが大きく育つよう水や肥料のやり方を工夫し、イグサの畳表の色を決める「泥染め」の工程では、独自に機械を組み立て、県外の染土や泥を取り寄せ、割合を調整して納得のいく配合を見つけた。
 10年ほど経った頃、取り引き業者に「君の畳表は質がいい。備後表(びんごおもて)として売れる!」と提案された。当時、農協は原草販売に力を入れ市場も作っていたが、良質なイグサは県外の業者が買い付けて備後表などに使われ、「土佐」のブランドはないに等しい。「土佐表として売ってくれ」と主張したが、「それでは売れない」と断られた。「自分で作った物は自分で売る」と、問屋や畳店に足を運び、取り引き先を増やし、地道に販路を広げてきた。1976年から息子の和仁さんも加わり、圃場の管理、畳表の製造や販売を行う。

 

家業を継ごう


2000年12月、弟の雅仁さんと田植え機に乗ってピース。

 1995年7月、智仁さんは生まれた。1歳違いの姉と弟と3人で、家族が働く田んぼや畑で泥だらけになって駆けまわる。特にイグサ刈りのシーズンは毎年待ち遠しい大イベント。「アルバイトのお兄さんが遊んでくれるし、おやつも食べ放題でお祭みたい」。
 ところが、智仁さんが生まれた頃から、中国からのイ製品の輸入が増大し、栽培をやめたり、他の作物へ転作したりする農家が相次ぐ。小学校に上がる年には、倉庫に在庫が積み上がり、天井が見えなくなるほど。在庫をなんとか減らそうと、両親は畳表にへりを付け上敷に加工し、県内の産直やスーパーの直販コーナーで販売し始めた。家族みんなが忙しく、遊びに出かけることはほとんどなかったが、出荷に付いて行くのは楽しみだった。
 「僕が継がんといかん」。中学3年の秋、進路を農業高校に決め、願書を取り寄せ、試験勉強に取り組んだ。しかし、父は「これからの農業は機械の知識がないとやっていけん」。助言に従い、須崎工業高校に進学することにした。

 

機械系を学ぶ


農業大学校では野球部に入部。キャッチャーを務めた。

 高校生になると、アルバイトとして家業を支えた。土日は朝から日が暮れるまで、平日は学校から帰った後も働く。野球部で鍛えた体力と精神力で、倒伏(とうふく)防止の網張りの杭を何百本も打ちつけた。高2の夏は、自ら修理したハーベスターで朝4時から7時までイグサを収穫してから学校へ。智仁さんはイ業を営む野村一家に欠かせない存在になっていた。  
 県内のイグサ農家は減り続け土佐市にたった3軒になっていた。智仁さんが仕事を手伝っていると近所の農家の人が寄ってきて、「間違っても百姓にはなるなよ」「好きなことしいや」と声をかけてくる。返す言葉に戸惑った。  高校ではエンジンの仕組みや機械の構造に興味を持ち、卒業制作は芝刈り機を改造して牽引車にし、文化祭で子どもたちを乗せ、喜ばれた。ものづくりに熱心な姿勢を評価した教師は工業系の企業に就職を強く勧めた。「大型車やクレーン車に乗る仕事も、おもしろそう」。継ぐと決めたはずなのに、気持ちが揺らいだ時もあった。
※ハーベスター:イグサの収穫に使う機械

 

こだわりの意味を知る

 「狭い業界でも横のつながりが大事」と、農業大学校に入学した。学校には自分と同じ農家の息子たちがいて、教室で机を並べ、部活では汗を流し、寮の部屋で夜な夜な語り合う。「赤うしの頭数、もっと増やしたいがよね」「休耕田を借りて、ショウガの作付けを広げたい」。具体的な目標を抱いた彼らは、深夜になるとテンションが高くなり、「俺らが高知県を支える!」と豪語する。智仁さんは「それは言いすぎやろ」と冷静に突っ込みながら、「僕も……」と心を動かされた。
 2年の夏、家族で熊本県を訪れた。新幹線の車窓からは青いイグサの風景がどこまでも続く。国産イグサの9割を生産する熊本は、品種改良も盛んで、水や肥料の管理も先進的。ドローンを駆使する農家もいる。新品種など、様々なイグサを見せてもらったが、「うちのとなんか違う」。
 祖父に尋ねると、「うちのは昔から高知の気候に合った品種で、表皮が硬く、粘りがある。畳にしても丈夫で10年20年は平気で持つ」。祖父は半世紀にわたり、「せとなみ」と「岡山3号」を栽培し続けた。草丈が高いため倒れやすく、貧弱な土壌では大きく育たず、病気に弱く、連作障害も起きやすい。流行りの青色や栽培のしやすい新品種に乗り換える農家もあったが、祖父や父は昔ながらの丈夫なイグサを選んだ。「特殊な道を選んで残ってきたのか」。家業を見る目が変わった。 



工場には10台ほどの織機が並ぶ。それぞれに綿や麻の糸が1本から2本セットされ、根元の白い部分と穂先の赤い部分をよく選別し、イグサを機械にかけると、畳表が編まれていく。その日の湿度やイグサの状態によって機械がストップするため、機械の調子を注意して、壊れたら修理もする。6畳分を一巻きにし、問屋や畳屋に販売する。野村さんの畳表は、県内外の畳店に運ばれ、畳床に取り付けられ、へりを付け畳になる。(写真右は土佐市北地の有限会社おかぞえの岡添さん)

 

自ら光り発信する

 卒業と同時に、就農した。「仕事は見て盗め」と言う祖父や父。育苗、田植え、管理、収穫と田畑の仕事は年中続き、工場では機械で畳表を製造し、問屋や畳屋に納品に行く。「特にきついのは、植え付け後の手直し」。機械で苗を植えた後、田んぼの中に入り、中腰の姿勢で転んだ苗を直していく。雪の舞う1月、親子3人で作業しても10日ほどかかる。
 今年からは苗の管理にも力を入れる。「うちのイグサは苗の時から硬く、株分けも大変。硬いからこそ、織ると丸みを帯びて、光を跳ね返し、部屋が少し明るくなる」。年に3回の苗の株分けも、丈夫な土佐表への第一歩だ。
 ある日、県外の畳店から「生産者の顔が見たい」と要望があった。これまでは納品する畳表に「土佐表 野村和仁」の判を押すだけ。土佐表の特徴を書き起こし、収穫したイグサを抱えた父と撮った写真を添えた。畳屋さんに持っていくと、「これ、えいねえ。畳を買うてくれた人にも渡すき」と高評価。関西の畳店からは、新しい畳を取り付けた部屋の写真を添えて「こりゃあいい!」とメールが届いた。
 「消費者は二極化していて、上質で丈夫な土佐表を求める人は確実にいる。ずっと守ってきた〝こだわり〟があれば必ず生き残れる」。インターネットやSNSで県外の生産者とつながり、研修に参加したり、お互いの産地を行き来したり。一歩ずつ、土佐表を未来へつなごうとしている。



野村さんの土佐表を使っている畳店などお問い合わせは、088-855-0411まで。

 


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