Posted on 2016.12.24

家業を継いだあの人 せがれ No.17

立田グループ(立田回漕店/若宮汽船)   立田 昌敬さん 港の向こうに 世界を望む

人、物を乗せ、物流を支えてきた海の路。
海に開けた高知から、未来の海運を描いていく。

せがーる やまさき料理店 池本 自歩さん

 西の海に沈む夕日。港には船のエンジン音が響いている。「幼い頃から、船は兄弟のような存在」と立田昌敬さん(34)。坂本龍馬の「海援隊」、岩崎彌太郎の「九十九商会」、大きくなってから、高知出身の先人が世界へ漕ぎだした歴史を知ると、胸が高鳴った。

 

港の総合代理店

 高知県の西の玄関・宿毛。港のある片島地区は、もとは無人島だった。「宿毛の発展は片島に外港を造ることにある」と、廃藩置県後初代知事を務めた林有造らが宿毛—片島間に堤を造り、同時に道路として利用する工事を行い、1887年に中心部と結ばれた。
 立田回漕店は、曾祖父・義衞さんが1924年、前身である宿毛桟橋株式会社を創業したことに始まる。業務は港湾運送業で、大阪から豊後水道、宇和島沖を通って日用雑貨などを積んだ定期船が港に着くと、自社の桟橋から貨物を受け取り、倉庫で保管し、地域に配送した。空になった船には木炭を詰めた俵を積み込み、阪神方面の消費地に運んだ。
 戦後は、パルプ材用の原木が主流になり、祖父・敬二さんが社長になった1951年頃からはセメントの輸送も増えた。多くの船が道路やダムなど工事がある度にセメントの粉を樽に入れ、周辺の港に運ぶ。しばらくすると船に材をそのまま〝ばら積み〟して運ぶことが増え、最盛期は1日に何十隻という専用の機帆船が大阪周辺に行き来していた。
 木炭は石油へ、木材は外材へ、日本の基幹産業が変化する一方、道路事情が改善されると、内航海運は陰りを見せるようになる。1974年、宿毛の船会社と合同で「若宮汽船」を創業。船と船員を所有し、内航船舶貸渡業として大手メーカーから国内輸送の請け負いを始めた。やがて立田グループとして港と船の両方を動かすようになった。


1960年代、宿毛の桟橋には大阪からの貨客船が着いていた。

祖父・敬二さん(後列)と父・雅弘さん(前列右)。

 

故郷を離れて

 立田昌敬さんは、5人きょうだいの長男。おっとりした性格で、小学校のテストの時、一問一問検算しながらじっくり解いて時間切れになることも。塾の先生には「ナメクジにブレーキをかけたようだ」と形容されてしまった。
 高知市内の私立中学に進学し、親元を離れて寮生活を送った。中学3年生の秋、誘われるまま入ったコーラス部で、2つ上の先輩に出会った。「歌がうまくて、仲間づきあいや目上の人への礼儀を教えてくれる」。憧れの先輩や仲間たちと合唱に熱中する日々。合唱曲の「鴎」や「方舟」、指揮に合わせて、それぞれのパートの声が重なる。何度も練習を繰り返し、高校3年生で出場した四国大会では金賞に輝いた。進学した岡山大学では、指揮者も経験。「みんなの声をよく聴いてコントロールする役。指揮次第でどうにでもなる」。責任とおもしろさ、その両方を噛みしめた。
 あっという間に卒業が近づき同級生は就職活動を始めているにもかかわらず、自分は進路を決めきれない。そんな時、父に勧められ、1年休学してイギリスに語学留学。「英語は習得できたけど、港の仕事をやっていけるのだろうか……」。不安なままの帰国だった。家業を継ぐべきか否か、長男としての責任を感じつつ、静岡県で手広く物流事業を手がける鈴与株式会社から内定をもらい、清水港の港湾事業部に配属された。


立田さんがドローンで撮影した石灰石専用船の美祢丸(左)。 船の上部の蓋を開けると、1万トンの石灰石が積み込める。 セメント専用船の立昌丸(右上)。鋼材専用船(Ro-Ro船)のJET TOKYO BAY (右下)は鋼材を積んだトラックごと積み込める仕様。

 

港から世界が見える


宿毛市大島からの眺め

 清水港にはひっきりなしに海外からの外航船がやってくる。船会社と船員たち、港で荷降ろしをする作業会社と作業員たちの間に立ち、入港のスケジュール、積み降ろしプラン、倉庫の管理など、全ての指揮をとるのが「フォアマン」。いわば港の現場監督の仕事を、立田さんは先輩たちから叩き込まれた。
 翌年、スズキ自動車の主要工場がある御前崎港に異動。港からは月に2万台の自動車をヨーロッパや北米、中東など海外に輸出していて、正月も帰省することができなかった。
 2008年9月のリーマンショックをきっかけに需要が冷え込み、輸出産業は大赤字。御前崎から輸出される自動車もあっという間に4千台まで落ち込んだ。「これだけ左右されるのか……」。ゆっくり輸出が回復していたさ中、今度は東日本大震災が起こった。スズキの工場は浜岡原発の5㎞圏内。生産が海外工場に移され、港から輸出される自動車は8千台ほどに落ちた。
 フォアマンになって6年が経った。作業員の手配や積み降ろしのプランニングなどを任され、社外の人たちとの関わりも増えた。物流や業界に理解が深まり、仕事に自信と誇りも芽生え始めた。
 慌ただしく一日が過ぎ、夕暮れの港に船のエンジン音が響いている。故郷の宿毛の港と重なった。「帰るなら今しかない」。

 

船の特徴を最大限活かす


2015年、風力発電用の部品を積んだ船が宿毛港に入港し、 クレーンでつり上げてトレーラーに積み替えた。

 2013年6月、立田さんの姿は宿毛港にあった。港に着く船の貨物の積み降ろしやクレーンの貸し出しを行う立田回漕店では港湾業務、船員を雇って船で貨物を運ぶ若宮汽船では働く船員のケアや船員の採用を担当。「規模は違えど同じ海の仕事。すんなり入れた」。
 若宮汽船は、石灰石専用船1隻、セメント専用船2隻、鋼材専用船1隻を所有している。石灰石専用船は国内で12隻しかない1万トン積。宇部、北九州、須崎、高知、北海道などの産地から関東の工場地帯へ輸送する。「一般貨物に比べて、石灰石やセメント、鋼材は不況に強いんです。景気がよければ民間が建物に投資するし、景気が悪くなれば公共工事が増える」。不況に強く、安定が望める事業に、祖父や父らが徐々にシフトしてきた。
 しかし、国内に3000ある内航船舶貸渡業は10年後には6割がなくなるという予測もある。現在、国内の貨物輸送は、陸上が4割、鉄道が2割、海上は4割。風力発電の羽根やポールなど陸路で運びにくい巨大なものは海運頼りの世界が確実に残っていくだろうし、大量にゆっくり運んでいい物は「モーダルシフト」といって海運にシフトする動きもある。外に目を移せば、島国・日本は輸入の99%を船に頼っている。
 今後、輸送船のさらなる大型化が進む可能性は高い。「例えば高知から東京に石灰石を1万トン運ぶ時、陸上なら1日で運べても10トントラックが1000台必要。だけど、船なら2日かかるが乗組員9人で運べる」。迷って中規模な選択をするより、リスクもあるが、先代がチャレンジしてきた大型の船のメリットを最大限活かす道を開拓することで日本の海運を支えていくことができるのではないか。

 

海運業の未来

 一度、祖父と東京に出張したことがあった。祖父は四国経団連の副会長や宿毛商工会議所の会頭など要職に就き、立場や年齢や性別などに関わらず、誰にも丁寧に接した。「背筋もしゃんとして、スタスタ歩く。90歳とは思えないほど」。取引企業に足を運べば「新しい船を造らせてほしい」と熱弁を振るった。しかし翌年、体調を崩し他界。「祖父の側でもっと勉強したかったのに……」。亡くなってからその存在の大きさに気づかされた。
 ふと、祖父が言い続けていた言葉を思い出した。「宿毛湾は、青森の陸奥湾や鹿児島の志布志湾と並ぶ天然の良港。戦時中には連合艦隊もやってきたほど大型船が入港できる。そして、世界有数の航行量の多い瀬戸内の入り口であり、太平洋というハイウエイの出口でもある」。瀬戸内海へ入ろうとする外国から貨物を小さな船に積み替えて目的地に配送する。「そういうハブ港になれる日だって来るかもしれない」。立田さんは宿毛港の未来を思い描いている。


JET TOKYO BAYの船員たちと。

 

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