Posted on 2016.12.24

犬も支えた森林鉄道

明治時代から大正時代にかけて、高知県の森林鉄道では犬がトロッコを引いていた?!
森林鉄道の「本線」にも、まるで毛細血管のように山奥の隅々に伸びた「支線(しせん)」にも、力持ちで身軽な犬がトロッコを引く鉄道の風景があった。

魚梁瀬森林鉄道の五味隧道の前で撮られた写真。大正時代、『高知大林区署写真帖』の収録のために撮られたせいだろうか、下り方向に向かって撮られている。(四国森林管理局所蔵)

 ここは魚梁瀬(やなせ)森林鉄道。山奥で切った木をトロッコに乗せて、ゆるやかな傾斜のレールの上を人間がブレーキをかけながら木の重さでゆっくり下っていき、貯木場へ集める。その後、空になったトロッコを山の上に持っていくために、犬が活躍した。
 この写真を掲載した『森林鉄道物語』(馬路村教育委員会)によると、犬は足が太めで長くなく、洋犬と秋田犬や地犬との雑種で、土佐犬は力があっても根気がなく、不向きだった。ただし、犬の経費はバカにならず、安芸・伊尾木森林鉄道の犬の総頭数は約百五十頭おり、機関車の運転手の日給二円ほどを加えた機関車の年間費用三千円をはるかに上回っていたという。

 


上左:空のトロッコを引く犬。上右:丸太の上に乗る犬(四国森林管理局所蔵) 下:トロッコの後についていく犬(高知市民図書館寺田正写真文庫所蔵)

山奥まで伸びていた森林鉄道は町と山間をつなぐ交通網でもあった



 魚梁瀬以外でも犬が活躍した。
 大原富枝の小説「父の青春」(『吉野川』所収)には、「家の前を終点とする森林鉄道のレールが走っている(略)。単線のレールの上を、夕方はトロッコが二台連結されて、山の様に高く木材を積んでゆるやかに走って来た。動力は何も使用されていなくて、自然の勾配のままに敷設されているので、緩やかなレールの勾配にしたがって下りてくる。上りには二匹の大型の洋犬が主人の運転手に後押ししてもらいながら、トロッコ一台を曳行(えいこう)する」とある。
 『ふるさと−メモ−』(本山町教育委員会)の「犬関車のこと」の項には、「山へのトロッコは『エス犬』と呼ばれる、大型犬によって引かれており普通の『エス犬』は2頭で引っ張っていた。しかし、優秀な『エス犬』は、1頭で間に合っていたと言う。小牛ほどもある立派な『エス犬』は、人間1人分の仕事をこなし、人間に負けないほどの賃金を得ていたらしい」とある。 ※原文のまま引用

生活と人を運んだ森林鉄道


安芸森林管理署所蔵

 安芸署管内で運転手をしていた小松定男さん(81)は、森林鉄道が廃線になる1962年までの12年間、徳島との県境・奥別役(べっちゃく)から、東川(ひがしがわ)を通って終点の伊尾木まで、約60㎞の道のりを約6時間かけて木材を運んだ。トロッコを20台連結し、その後ろには客車。「命の補償はしない」という前提だが、多い日には100人ほどが便乗した。「材木や医薬品の商売人、行商人に、郵便屋、大人も子どももどっさり乗る。これに乗ってお嫁さんに行く人もおったことよ」。森林鉄道は木材だけでなく、生活必需品、地域の人の人生も運んだ。
 やがて軌道が道路にとって代わると、小松さんは機関車を降りて大型トラックの運転手となり、木材を都市部へ運んだ。


小松定男さんが運転していた機関車(本人提供)

そして現代へ

 産業と深い関わりを持ちながら、高知県のレールは広がり続ける。明治後期の1904年、堀詰—乗出(現・グランド通)、梅ノ辻—桟橋間に軌道が敷かれ、高知の町に初めて路面電車が走った。4年後には伊野町まで延長し、当時、重要な輸出品だった和紙を高知港に運んだという。1924年には、須崎—高知間に高知線(現・土讃線)が開通。同年、高知鉄道(現・とさでん交通)の後免—手結(てい)間が開通し、その後、安芸まで延伸し1974年まで走っていた。
 1965年、国鉄新線として安芸—田野間が着手されたものの国鉄の財政難でストップ。2002年、およそ37年をかけて、高知で最も若い鉄道「ごめん・なはり線」が開通した。運営の主体は、県や沿線自治体主導で設立された「土佐くろしお鉄道」に引き継がれた。


ごめん・なはり線活性化協議会提供

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