Posted on 2016.06.24

移るんです 其の三

解き放たれた絵金

土佐には古くから流されてきた人々がいた。
他国からでなく自国にいながら流された人もいた。
時は幕末。風俗・文化の面にも「このままでいいのか」という風潮が蔓延(まんえん)しだしていた。
そんな時、1人の絵師が野に放たれた。

移るんです「絵金」
わしは死後、絵金と呼ばれたらしい。
はりまや橋近くで生まれた わしの本当の名前は、金蔵。
初めから野心があったわけではなく、 絵が得意だっただけ。
一芸に秀でるがは、いいぜよ。
売りこまなくても勝手に見出してくれる。
最初は、土佐藩・狩野派を継いだ御用絵師・池添美雅(よしまさ)さん(楊斎(ようさい)・池添美光へ入り婿)だった。​
16歳で入門して3年後の1829年には、身分は最低の自分が藩主息女の駕籠(かご)かき役とはいえ江戸へ行けたんだ。
藩主ぜよ、藩主。江戸ぜよ、江戸。

 

狩野派を学ぶ

 金蔵は江戸で、庶民あがりのハングリー精神が似ていたこともあり土佐藩邸御抱(おかかえ)絵師・前村洞和(とうわ)にかわいがられ、狩野(かのう)派を学び、その技術を身に付けた。19歳で土佐に戻ると、金蔵は土佐藩家老・桐間家の御用絵師に大抜擢。絶えていた藩医・林家を相続し、頭を丸め、士族身分となり、「林洞意美高(とういよしたか)」と名のることになった。
 順風満帆、腕を磨き、地位を上げ、恩師・池添が亡くなると狩野派のトップの地位に着いた1844年のこと。金蔵は土佐藩御用絵師解任、高知城下、つまり追放の憂き目に遭う。なぜ——?

 

落款を入れたのは誰?

 贋作(がんさく)事件に巻き込まれたのだ。「ひとつ、絵を描いてくれんかよ」。訪ねて来たのは、よく知る古物商だったという。描いた絵は左右一対の掛軸「蘆雁(ろがん)図」。なんとその絵が、当時その所持が名家の一つのステイタスであった狩野探幽(たんゆう)の落款(らっかん)が押されて売りに出された。もちろん、すぐバレた。描いた者の落款を入れるのがルールなので、金蔵が自ら入れたとは考えにくい。では、持ち去られでもして入れられたのか? だとしたら「盗られました」と訴えるだろう。落款を入れた者が仕掛人!? 謎だらけだが、金蔵はすべてを知っていたとも思えてくる。そうだとしたらリスクが大きすぎる。実は、金蔵は同じタイトルの「蘆雁図」を「林洞意」の落款を入れて残している。これは何かのメッセージではないだろうか? とにかく、絶頂期にあった金蔵は33歳ですべてを失った。


林洞意 「蘆雁図」六曲一隻 個人蔵 ※狩野探幽「蘆雁図」の模写ではない

医師にこだわったわけ

 城下追放と同時に林姓も剥奪(はくだつ)された金蔵がすぐしたこと、それは新しく医師姓を得ることだった。幸いにも、町医師で空いていた弘瀬家を継ぐことができたが、狩野派への強い執着を、その心中に垣間見ることができる。

 武家社会400年間にわたり画家集団として君臨し続けた狩野派だったが、中でも格式が高い「奥狩野」4家は医師や僧侶の職挌を得ることで将軍との接見などが可能となっていた。江戸で狩野派の絵だけでなく仕組みも体感した金蔵は、まさにツボを押さえていたのだろう。


『奥州安達原』三段目 安部貞任(部分)

赤岡の自由な空気に囲まれて

 下野した金蔵は各地を放浪したようだが、しばらくして声がかかった。「蔵が空いちゅう。うちに来て、存分に絵を描きよったらどうよ」。声をかけたのは、おばの嫁ぎ先、赤岡(あかおか)で廻船(かいせん)問屋を営む商人だった。
 金蔵が描く絵は町のうわさとなった。夏祭りを前にしたある日のこと、また声がかかる。「今度お宮で奉納芝居をするが、盛大にしたいので絵を描いてくれんろうか」。須留田(するだ)八幡宮の拝殿(はいでん)にはろくろ式廻り舞台があり、そこで行われる歌舞伎芝居は氏子(うじこ)たちの楽しみであった。この一声が絵金誕生のきっかけになるとは、本人も周囲もまだ知る由もなかった。
 金蔵は軽く誘いに乗った。この時に描いた絵は残っていない。だが恐らく、歌舞伎のストーリーを連想させる、後に絵金が残した芝居絵に近いものではなかっただろうか。この絵は評判となり、競うように注文が舞い込み、金蔵は描きまくった。それは二曲一隻(せき)型の芝居絵屏風で、屏風として立てることができた。こうして、狩野派にとり屏風絵はお城や寺社などで荘厳さを彩るものであったが、絵金の屏風絵は商家の軒先(のきさき)の地面に置くものになった。


赤岡・須留田八幡宮拝殿

一人の絵師として

 赤岡は交通の要衝(ようしょう)だったこともあり、製塩業や廻船業、酒や味噌醤油、鍛冶(かじ)、綿織物など大きな商圏を形成していて、まちは活気に満ちていた。こうした経済力と活力を背景に、例え禁止令のさ中でも「奉納」と称して地域の行事をやめることなく庶民は楽しんだ。また、庶民が喝采(かっさい)を送る芝居絵を描く絵金にとっても、彼らに喜ばれていることを間近で実感できることは決して城の中では感じられない喜びであったに違いない。赤岡のまちで、絵金は画家として自立できたと言うことができる。
 金蔵の生まれた時の姓は木下、その後、林、弘瀬と2度変わる。そして、人生を弘瀬姓で終えた。だが、その墓の表には「友竹斎(ゆうちくさい)」とあるだけで、弘瀬も林もない。身分や名誉へのこだわりは消えたのだろうか。死後のことなので本人の意思がどれほど働いたかは疑問だが、地位より個を優先する思いがわずかであっても妻や長男に伝わっていたと想像するのは勇み足だろうか。

 今も旧盆の宵(よい)になると赤岡のまちは、邪気が来ぬよう軒先に絵金が残した屏風を立て、ローソクで照らし、家の中では先祖の供養をする、当時と変わらぬ風景となる。

せん


絵金蔵 副蔵長 横田さん 

横田恵さん(絵金蔵 副蔵長)

 私が絵金と出会ったのは大学の授業。楽しみにしていた絵金祭りを見に行く授業が中止になったため、自分で絵金を調べ始めたのがきっかけです。絵金の絵の魅力だけでなく、一緒にこの文化を作り上げていった幕末土佐の庶民たちのパワーにもひきこまれ、大学院に進学して研究を続けました。
 絵金の人物像は滞在した地によって異なって伝わっています。赤岡町では「酒蔵の一室をアトリエにして大酒をあおりながら描いていた」、須崎市では「真面目で仕事中には一滴も飲まなかった」といった具合に。波乱万丈の生涯とともに、こういった謎めいた人物像も絵金の魅力の一つです。

 

Information 7月14、15日 須留田八幡宮神祭 ※7月第3土日の絵金祭りとは少し趣きが違った景色となる

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