Posted on 2016.06.24

家業を継いだあの人 せがれ No.15

株式会社アルテック 代表取締役  青山 幸司さん 最高の音を追い求めて

一世を風靡した高知のジャズ喫茶から、舞台やテレビを支える音響の世界へ。
人々を魅了する音作りの仕事は続く。

せがれ 株式会社アルテック 代表取締役   青山 幸司さん

 入学式、結婚式、少年野球の開会式、カラオケ大会、よさこいの地方車にテレビの生中継。青山幸司さん(40)は、マイクやスピーカーが必要なあらゆる場面で音を演出するサウンドマン。室内、野外、ホールなど会場の音の反響を確認し、必要な機材を配置し、いい音が響くよう最善を尽くす。「目指すのは、明瞭でメリハリのある音。音では誰にも負けたくない」。

家業はジャズ喫茶


レイ・ブライアントをはじめ、名だたるアーティストがアルテックでライブをした。アルテックライブを収録したCDも多々ある。

 幸司さんの両親は大津バイパスが開通したばかりの1973年、若者向け商業ビル「ヤングプラザ」の2階に喫茶アルテックを開店した。当時、空前の人気を誇ったアメリカのホームオーディオALTECのスピーカーを置き、店主の青山清水さんが「見よう見まね」で真空管アンプを組み立ててジャズを流したところ大ヒット。その音に魅了された人たちが通い詰めた。
 最大100人が入るジャズ喫茶は県内では他にはなく、渡辺貞夫がライブの打ち上げに訪れ演奏したことをきっかけに、夜はライブハウスとなった。海外のジャズアーティストの全国ツアーにも呼ばれるようになり、舞台監督として裏方を仕切りつつアーティストの出迎えから宿の予約、楽器や荷物の運搬までなんでもした。その献身的なもてなしが喜ばれ、アート・ペッパーやビル・エバンスといった世界的ジャズメンが高知を訪れ、ライブをした。

 


ひねくれた青春時代


 幸司さんは二人兄弟の次男。両親は厳しく、勉強ができた兄と比べられよく怒られたことを覚えている。「機械いじりが好きで、ラジコンやエアガンを組み立てて遊ぶのが好き」。中学生になると、父が現場を務めるジャズライブの仕事に付いていくようになった。「年に数回だったけど、遠いところに行けるのは楽しみ。でも、ジャズに興味なんて沸きませんでした」。
 野球好きの父親に影響され、小学校3年で少年野球を始めた。中学3年まで7年続けたが、「坊主頭が嫌」で高校ではソフトボールに転身。初心者が多く、ぎりぎりで試合ができる人数。それなら楽しくやりたいと考えたが、顧問は厳しい練習を課すばかり。2年になったある日、疑問が積み重なり顧問に思いをぶつけた。「そんな教え方したって、勝てるはずない」。バッチーン、とビンタが飛んだ。「ひねくれてるのに曲がったことは大嫌いな性格で」。結局、部活は辞めた。仲間とバンドを組んでピストルズ、ラモーンズ、ブルーハーツを演奏したり、バイクいじりをしたり、趣味の世界に羽ばたいていった。

 

凝り性が顔を出す

 高校卒業後、県内の大手製作所に就職した。つなぎを着て機械の組み立てや修理をする毎日。上下関係は厳しく、東京工場、札幌営業所など転勤も続いた。50歳、60歳代になった自分を想像した。「一生、工場の中で働くがか……」。コンサートツアーの仕事で上京した父に愚痴をこぼしたら、あっさり言われた。「ほんなら辞めて帰ってきいや。けっこう忙しいき」。5年目の冬、会社を辞めた。
 週末はライブの仕事、夏はよさこいの仕事に忙しいが、それ以上に母が切り盛りする喫茶のランチタイムも多忙を極めていた。料理経験ゼロの幸司さんは戦力になれるよう、叔父が経営するレストランで働き調理を学び、2年後、アルテックの厨房を任された。短い昼休憩に訪れるお客さんのために、仕出しの弁当をとってやりくりしていたが、「もったいない。これなら俺にもできる」と手作りに切り替えた。玉子焼きやオムライスは専門店に負けない味となり、評判になった。


2002年、Fujitsuコンコード・ジャズ・フェスティバルで福井県を訪れた時、ギター奏者のポリーニョ・ガルシアと。中央が幸司さん、その左は父・清水さん。1988年から2010年までこのツアーに同行し、トラックに機材や荷物を積んで約20日間をかけて日本中を回った。

自分流を探して


 喫茶の傍ら、父の仕事も手伝った。朝8時に現場に着いて機材を運ぼうとした矢先、「まだ音は出んがか」と主催者。マイクやスピーカー、ミキサーやアンプなどの機材を設置し、マイクのボリューム、ハウリングチェックなど準備の時間が考慮されていない。他にも、約束の時間に行っても会場の鍵が開いてない、そもそも約束の時間が違う、持ち込んだものと全く別の機材が必要だった……そういうトラブルは日常茶飯事だった。「話、ついちゅうが?」。打ち合わせしたはずの父に詰め寄ることもあった。大手に比べると、機材もスタッフも少なく、料金を叩かれることもしばしば。「いい仕事をしたとしても、こんなことで評価を落としたくない」。どんな小さい仕事も自分が窓口となり、打ち合わせをするようにした。
 動き出した息子を、父は冷静に見ていた。「現場の段取りも、機材の扱いも自分を超してきゆう。そろそろ……」。2007年に株式会社化し、30歳の幸司さんが代表になった。
 まず、HPを立ち上げ、機材レンタルやオペレートの料金表を掲載した。小規模な現場は2万円から、中規模、大規模、よさこい祭りまで、機材と料金を見せ、現場の様子をブログに綴る。それを見た人から依頼が舞い込み始めた。

転機はテレビ中継


パワーアンプにデジタルミキサー。 10年ほどかけて機材は最新のものに刷新した。

 「ピッチャー振りかぶって投げました。バッター、打った!」。「…カキ」。「あれ? なにこの音」。初めて呼ばれたケーブルテレビの野球中継。甲子園のように「カッキーーーン!」と良い音が響くはずだった。解説者の声はよく聴こえるが、現場の臨場感がなく、淋しさが漂っている。録画した番組を再生しながら、愕然とした。
 機械が揃っていても、正確に操作ができても、人の心に響くわけではない。フェーダーを操り、ボリュームを調整したりエフェクトをかけたりして音を演出する。生中継の番組では、いくつものマイクが拾った複数の音をヘッドフォンで聴きながら、ミキサーで調整しないといけない。事前の打ち合わせはとにかく入念におこない、下見に足を運んだ。場数を踏むうちに、「いい音だった」「気持ちよく歌えた」と喜んでくれる人が増え、「次もよろしく」と予約が入るようになった。
 2016年、ジャズ喫茶アルテックの閉店を決めた。ファンからは惜しむ声が届くが、70歳を目の前にした両親がいつまでも続けられるとは思えない。「料理も好きだったけど、音響のほうがわくわくする。これからは一層、音の仕事に専念できる」。店はなくなっても、人々を魅了する音は響き続ける。

 


母・幸枝さんと清水さん。店とライブ、二人三脚で43年アルテックを守ってきた。


アルテックは2016年10月末で閉店する。フィナーレを飾るジャズライブも企画している。(高知市北本町4-4-23)

 


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【とさぶしMAP】ジャズ喫茶アルテック

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