Posted on 2016.03.23

家業を継いだあの人 せがれ No.14

黒鳥鍛造工場  梶原 弘資さん 造って、直して、 役に立つ。

農林業用具から日用品まで。
「野鍛冶」魂を引き継ぎ、自由自在に道具を生み出している。

黒鳥鍛造工場  梶原 弘資さん

 カン、カン、カンカンカンカン——轟々と音を立てて燃える炉から真っ赤に燃えた鉄の塊を取り出し、槌を打つ。四角い鉄の塊が、みるみるうちに湾曲した鎌の形になっていく。黒鳥鍛造工場六代目の梶原弘資さん(36)は、「こんなにおもしろい仕事はない」と笑った。

暮らしに溶け込む「野鍛冶(のかじ)」


黒鳥の刃物カタログ

三代目の鹿亀さんが製作した黒鳥の刃物カタログ。ここに描かれている道具はほんの一部で、造った道具は数えきれない。

 土佐湾と四国山地に囲まれた四万十町窪川は、県内屈指の農業・畜産地帯。仁井田米を生産する田んぼの中に、黒鳥鍛造工場はある。
 ルーツは安芸郡黒鳥村で十数代続いたと言われる「黒鳥」の川島本家。明治初期、三番弟子だった梶原平次が高岡郡東又に移り住み、鍛工場を創業した。一番弟子は「黒黒」、二番弟子は「鳥鳥」、三番弟子の平次は分家して「黒鳥」を名乗ったが、今はもう本家も一番弟子も二番弟子までも鍛冶屋を廃業し、その名を引くのは黒鳥鍛造工場だけになった。
 多くの鍛冶屋が鎌や鋏などそれぞれの道具に特化していく中、「野鍛冶」の道を歩んだ。皿鉢に盛り付けしやすいように刃先に角度をつけた両刃のタコ引きとか、繊維質のショウガを切り分けやすいよう薄くて切れ味のよいショウガ包丁とか、たった一つの注文にも、試作をし、形にする。人の生活に必要なものを、お客さんの声を聞きながら商品を増やし、修理をすることで長い付き合いをしてきた。
 三代目は職人でありながら、カタログを作ったり高知市に宣伝に行ったりと、お客さんを広げてきた。「四代目の父は子どもの頃から鍛冶を手伝い、中学を出る頃には一人前。造ること一筋でした」。当時は林業が盛んで、枝打ちに使う柄鎌がよく売れ、その複雑な刃物を作る技術が磨かれた。



包丁も鎌も、材料は四角い鉄や鋼。ガス炉で摂氏1000〜1300℃に熱する。黒っぽい鉄の塊は、温度が上がるにつれて赤や黄色に燃え、槌で叩くごとに強度が増す。鉄と鋼をするため、を振りかけ、熱し、叩く。

 


日本屈指の刃物の産地


小学校高学年の時、父と。地元の高岡神社のご神刀の修理を完了した記念に。

 日本には古くから刀や農機具などを鍛造する鍛冶屋がいた。戦国時代の長宗我部地検帳にも土佐に399軒の鍛冶屋がいたことが記されている。1590年、豊臣秀吉の小田原征伐に参戦した長宗我部元親が熟練した刀鍛冶を連れて帰り、その後、土佐打刃物の評判が日本全国に伝わったとされる。江戸時代初期、土佐藩の森林開発および新田開発の振興策により農・林業用刃物の需要が拡大し、生産量、品質ともに向上した。特に南国市久礼田や香美市土佐山田町に職人が集中。土佐打刃物の産地になり、次第に包丁や鋏などに特化する鍛冶屋が増えた。
 鍛冶の傍ら郷土史を調べた黒鳥四代目の照雄さん(73)によると、「先祖がここに移って来たのは偶然だが、一条氏の時代、鍛冶屋が実はこの窪川の本堂に集められていた。今でも土地を耕すと鉄が出る」。長宗我部の時代より前にも、鍛冶屋が道具を造っていて、窪川はその中心だったという。
 包丁などプレス機で形を打ち抜く作製方法が普及し、大量生産のための分業が主流になっても、土佐打刃物は一人の職人が四角い鉄を打って形を作る。それは「自由鍛造」と呼ばれ、どんなものでも形にした。
 林業用の鉈や斧、狩猟用の剣鉈、今は家庭用の包丁や鍬……。鍛冶屋が造る道具が人々の産業や生活を支えてきた。しかし、鎌は草刈り機に、鍬はトラクターになり、鍛冶屋の造る道具は姿を消していった。

 

夢を持てずに

 弘資さんは、三人兄弟の末っ子として生まれた。「とにかく勉強が嫌いで、劣等感が強い。今思えば憂鬱な小学生時代」。勉強がよくできた長男、手先が器用だった次男の下で、夢を持てずにいた。唯一、図工と体育だけが楽しい時間だった。小さい頃から、父が仕事をする工場が遊び場。砥石で発泡スチロールを削って飛行機を作ってもらったり、自らも船を作ったり。時には、包丁の目方を刻印する仕事を手伝うこともあった。
 二番目の兄も一度は鍛冶に挑戦したものの挫折した。「ひょっとして自分なら」と、弘資さんは高校を中退して父の下に弟子入りした。
 「工場は想像した以上に、きつい、汚い、危険。機械の使い方も、道具の場所すらわからない」。造る刃物が多いおかげで、道具は数えきれない。床は土を固めただけの土間で、雨が降ると泥だらけになる。「こうしろ」と指示されても、長い工程の一部分にすぎず、何をしているのか理解できずやりがいも持てない。徐々に引き込もり気味になり、結局、半年足らずで工場を辞めた。

造る仕事を転々と


  その後、知り合いのつてで地元窪川の建築会社に弟子入りした。朝は掃除に始まり、鑿研ぎ、鉋研ぎ。職人仕事の下積みに精を出したが、景気悪化で退職。土木アルバイトを転々としている時に、友人の母親に紹介されて、高知市のデザイン会社に転がりこんだ。木工、鉄鋼、プラスチックなどさまざまな素材を使い、信用金庫のディスプレイやよさこい祭りの地方車を手がけ、なおかつ社長は芸術肌で、表現するおもしろさを学んだ。社員もわきあいあいとして心地いい。いつか自分も会社を立てたら、と思いを巡らせることもあった。
 もっと専門的に塗装の技を身につけようと地元の板金屋に就職。ハンマーで鉄を叩き、パテをつけて整え、荒目から細目まで磨きをかける。「これは鍛冶屋も同じかも」。3人ほどの小さい会社だが、ちゃんと掃除をしたり、塗装の講習があったり、「原理を教えるシステム」が発見だった。
 一通り学んだところで退職し、次は地元で養豚を営む会社に転職。肥育と出荷を担当し、自分が何頭育てて、いくらで売れたのか、しっかり数字をつけることを教えられた。
 「この原理って鍛冶屋と一緒?」。どんな会社で、どんな仕事をしても、鍛冶屋の仕事が頭を離れることはなかった。

二度目の挑戦


土佐打刃物 黒鳥

看板屋時代の友人にデザイン、製作を任せた店頭。杉と金属を組み合わせ、夜になると光る。(四万十町本堂430)

  70歳を目の前にした父が「もう辞める」と言い出した。二番目の兄は五代目として父を手伝っていたが、道具を量産することには興味がない。鍛冶屋には落ち着かず別の仕事を探すようになった。
 地元の畜産部会に参加した時のことだった。「近所からの臭いの苦情など、一度辞めてしまうと、畜産は二度と復活できん。経営が苦しくても、方法さえ見つかれば続けることができる」。ある家族経営の農家が法人化し、従業員を入れることで継続した例を知った。「うちの鍛冶屋も同じ。今やっちょかな、全て無駄になる!」。
 久しぶりに工場に足を踏み入れると、問題点に気がついた。機械の配置、道具の場所、仕上げ工程の場所……。片づけをはじめた。「捨てるな」という父に対して、仕事の流れを把握している兄の協力を得て、工場の環境を整える。片隅にあった店舗部分を広げ、ショーケースに刃物を展示し、看板も新しくした。「鍛冶は職人一人で完結する。だから辞めるのも簡単。でも、工程ごとにできる人を増やし、仕事を回していけば、将来も生き残れるかもしれない」。
 試しに包丁を造ってみたら、案外形になった。数をこなすうちに造るコツも得た。修理に訪れたお客さんの錆びて赤茶けた包丁を磨いて差し出すと、「わぁ新品みたい! 祖母の形見が使えるようになった」と歓声。Facebookで工場の様子を知らせたことで、修理の相談が急増。四万十町のふるさと納税の返礼品にも選ばれ、受注はうなぎ上り。「造る仕事も直す仕事も、人に役立てることが楽しくて仕方ない」。

 5年後は、社員を雇って企業にしたい——。そうすれば、野鍛冶がさらに50年、100年、生き残る。


2016年2月、四万十町美術館の展覧会「四万十町の若者たち展」(2016年4月7日まで)に初めて出品した。


上から、土佐打刃物を代表する、柄鎌、斧、鍬。柄を通す四角い穴はヒツ抜きという土佐打刃物の特徴の一つでもある。木の枝打ちに使う柄鎌は形が複雑で特に難しい。


 


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