
「このままずっと畑仕事?」。朝から夕方までミョウガやシシトウの収穫。毎日、家とハウスの往復で、顔を合わすのは家族とパートのおばちゃんだけ。母や自分のように二代にわたって娘が継いだ農家は、50軒あるこの地区で一軒もない。「他の仕事もしてみたいのに、まさかこのまま……」。二十歳の岡田香織さん(37)は焦りを感じていた。
ハウスミョウガの名産地

山々に囲まれたわずかな平地に、三角屋根のビニールハウスが立ち並ぶ須崎市多ノ郷地区。このハウスは通称・合掌造りと呼ばれ、須崎ならではの形。支柱以外は木でできた、昔ながらの骨組みも珍しくない。
そのルーツは大正14年に遡る。地元の有志3人が油障子を使ったペーパーハウスを建て、キュウリの半促成栽培に取り組んだ。ハウス施設と栽培技術とが両輪となり進化を続け、昭和59年にハウスミョウガの栽培に着手。以来、収量は右肩上がり、国内最大の産地となった。特に夏場のそうめんの添え物として関東の市場で需要が高まり、JA土佐くろしおのハウスミョウガは、全国6割のシェアを誇る。他にも、キュウリ、シシトウ、ニラ、花卉などを含めると年間100億円を売り上げる、須崎の一大産業だ。
娘が継ぐ農家
香織さんは3姉妹の次女として生まれた。小さい頃から、家族の仕事場のハウスに歩いていって、小川でハヤやドジョウを網で獲ったり、野花を摘んだり。ハウスの中でかじった、採れたてのキュウリのみずみずしい味は、今でもよく覚えている。
「母はとにかく仕事が大好きな、働き者」。香織さんは4歳になる頃まで保育園には行かず、ハウスで働く母の傍で育った。夕方、仕事を終えてパートのおばちゃんが帰った後は野菜の手入れ、晩ご飯を食べた後は深夜まで倉庫でパック詰め。家族の世話や育児もあって、常に忙しい。それが母の印象だった。
もともと農家の長女として生まれた母・知恵子さんは、高校を卒業して県外で仕事をしていたが、大工だった父と結婚を機に仕事を辞め、両親とキュウリとシシトウの栽培をするようになった。香織さんが10歳の時、祖父がキュウリ栽培をやめることになり、父も大工を辞めて就農。当時、まだ普及していなかったハウスミョウガに切り替えた。秋ごろに苗を植えてから収穫できる春頃まではずっと油を焚くためコストがかかる上、農協も取り組みはじめたばかりで、栽培方法が確立しておらず、毎年、育て方を見直す必要がある。それでも、露地ミョウガが出回らない時期の大きくきれいなミョウガは高く売れた。

岡田さん一家は約40アールの畑でミョウガとシシトウを栽培している。
私しかいない

母・知恵子さんと香織さん。知恵子さんの得意料理の、柿とキュウリとリンゴのサラダは香織さんが料理に興味を持つきっかけになった。
「高校を卒業したら調理を学びに専門学校に進学しよう」と考えていた高校3年生の時、父の体にガンが見つかった。「お願い、手伝って」と母。進学や就職していく友達を横目に見ながら、卒業してすぐに畑仕事を手伝うようになった。幸い、父の手術は成功して回復。しかし、今度は母にガンが見つかった。就職した姉、まだ高校生の妹、「私しかいない!」。
夏は35℃にもなるハウスの中で、立ったりしゃがんだりしながら、実ったミョウガやシシトウを摘み取っていく。収穫期でない時も、成長しすぎた葉や病気がついた葉を取り除く作業が延々とある。広いハウスの中で、たまにすれ違いざまに話をすることがあっても、1日のほとんどは黙々とする作業ばかり。やりがいを感じることなく仕事をしている自分がいた。
外の世界へ
「今しかチャンスはない」。22歳の時、少し回復した母を説得して、調理師学校へ入学。家の仕事も続けられるよう、夜間部を選んだ。平日は毎日17時まで畑仕事。車で高知市内まで走り、18時から3時間、授業や実習。家に帰ってきたら22時を過ぎている。それでも、年も経歴も違う人と知り合い、調理を学べることに充実感を得られた。学んだ料理は家族の食卓に並び、その時に見る母や父の笑顔がうれしかった。
母の体調は徐々に悪くなり、高知市の病院に入院した。畑の仕事に家事、学校に通いながら看病する生活を続けたが、卒業して調理師免許を取得したと同時に、母は他界した。
「私の番がきた」。それまで母の役割だった、フィリピンからの実習生のケアや、パートさんの給料計算などを引き受け、野菜の栽培やハウスの管理をする父を助けた。3年後に、家事を支えていた祖母も亡くなり、香織さんの肩に、母と祖母がしてくれていた荷が重くのしかかった。
育てる楽しさを知って
巨大な台風が来て、前日に張ったビニールが全部破れ大被害にあったこともある。大雨が降るとハウスの中に水が湧いてくるので、病気に対する細心の注意を払わないといけない。自然相手の仕事に苦労は尽きない。
農業を続けて7年ほどが過ぎたあたりからだろうか、ミョウガを根からきれいに採れるようになったり、生い茂る葉の間に実ったシシトウを見逃さないようになった。なにげなく収穫をしていても、「緑色が濃いミョウガはアクが強めかな」、「このエナメル質の強いシシトウは辛いな」と直感が走るようになった。
「シシトウの伸びすぎた枝を摘み取ると、新しい芽が出て、花が咲いて、実がなる。手間をかけた分だけ返ってくるんです」。いつの間にか、農業にやりがいと楽しみを感じる自分がいた。すると、この仕事を続けていくことへの不安は小さくなっていった。
家族が支えに
周りに自分を見てくれる人もいる。知人からの紹介が縁で、32歳の時に光正さんと結婚した。電気工事の現場監督をしていた夫は県内を西から東へと走りまわり、夜も遅く不規則な生活が続くことも少なくなかったが、長女が生まれるタイミングでサラリーマンを辞め、農業の道へ。香織さんの父から栽培や施設の整備を教わりながら、毎日ハウスで働く。まだ新人同様だが、頼もしいこと極まりない。
「お散歩いこうか」。香織さんは2人の娘と手をつなぎ、父と夫がいるハウスに歩いていく。かつて母がそうしたように、畑で遊ばせながら栽培や収穫を手伝う程度だが、そろそろ仕事に復帰しようかと考えている。「家族が近くにいて子育てもしやすいし、手をかけて作った野菜を娘たちがおいしいと言って食べてくれる。今は毎日がとても楽しい」。農業をしながら家族を支える——そのバトンは受け取ったよ。そんな気持ちが芽生えてきている。

父の覚さん、夫の光正さん、長女の仁千華ちゃん、次女の心花ちゃん。 家から歩いて行けるハウスは、仕事場であり、子どもたちの遊び場でもある。