Posted on 2015.12.18

伝説探訪 Vol.8

黒田郡と人魚伝説

戸島千軒※(へじませんげん)、野見(のみ)千軒——
須崎の海岸部には大きな集落があったが白鳳(はくほう)の大地震で一瞬のうちに沈んでしまった。
この大地震で高知全域の浦々に被害が出たが、須崎周辺では伝説となり語り継がれている。

野見の潮ばかり

写真(潮ばかり):灯工房ひよこ 徳永泰次郎


 夏は縁台で夕涼みをしながら、冬はこたつで暖をとりながら。「わしらは耳にタコができるばぁ、おじいおばあから黒田郡や八百比丘尼の伝説を聞かされてきた」。須崎市教育委員長の古谷好弘さん(67)は、幼少時代に思いを馳せる。海の水が澄んだ日は海中に井戸や畦道が見えたという漁師や、海辺のあちこちでかわらけを拾ったという戸島の住人もいる。半信半疑ながら「真相を突き止めたい」という思いを育ててきた。
 昭和49年、潜水調査船「しんかい」が海底堆積物調査の途中、上ノ加江の加江崎沖合7㎞の海底から石包丁を持ち帰ったというニュースが流れた。「伝説を裏付けるヒントかも!」。古谷さんは、昭和52年、戸島で拾ったかわらけを調べてもらったところ弥生時代のものと判明。翌年は仲間と海に船を出しボトムソナーで海底調査すると、野見湾で不自然な台地を発見した。
 さらに高台の神社や寺に残る文献を調べてみると、野見湾の随所に「皿谷」「まないた」「人が浦」という人魚にまつわる地名が残っている。野見地区に受け継がれる「潮ばかり」も、虚空蔵山の光り岩を目指して上陸した徐福一行がこの地に残した道教の神事の名残ではないかと、古谷さんは推察する。
 もう一つ不思議な話がある。白鳳の大地震の200年後、土佐に入国して津野山を治めた津野経高は、白鳳の大地震のことも、黒田郡のことも知らないのにもかかわらず、自ら安全な場所に城を構え、犠牲者の霊を供養するため寺や神社を建立しながら、須崎の町を興したという。
 古谷さんは、一つの仮説に到達した。白鳳の大地震後も比丘尼は生き延びて、領主不在の須崎に経高を呼び寄せ、黒田郡や地震のことを警告しようとしたのではないか。伝説には須崎で地震を語り継ぐ知恵が編み込まれていた、と。


野見の潮ばかり

毎年旧暦の1月14日に行われる海の神に感謝する野見の潮ばかり。深夜の海に男たちが飛び込み、5色の短冊を飾りつけた高さ15mの竹を海中に立てる。沖に倒れると豊漁、岸に倒れると豊作になるという言い伝えがある。2016年は2月21日におこなわれる。


賀茂神社

海の見えない多ノ郷地区にある賀茂神社。八百比丘尼が建てた十三重塔を、鎌倉時代後期に経高が移築した。


※千軒:家がたくさん建ち並び繁栄していること/※かわらけ:土器、素焼きの陶器
※石包丁:弥生時代の穀物の穂をつみとる道具/※徐福:紀元前に秦の始皇帝に命じられ不老不死の薬を求めて日本に渡ったとされる人物

 


人魚伝説

 白鳳の大地震(685年)より前、須崎付近には大坊千軒という繁栄した浦があった。そこに住む一人の漁師が人魚を捕まえ、領主に献上することなく食したため、斬罪に処せられた。
 そのときに料理したまな板の血をなめた幼女が長寿を保ち、諸国を転々とした後、若狭の国に住み、尼となって八百比丘尼と呼ばれた。百数十歳まで長生きしたのち土佐に帰り、報恩のため郷里に石塔を建立しようとしたが、白鳳の大地震のため大坊千軒は陥没して跡形もなくなっていたので、その付近と思われる場所に建てた。その後、津野公が加茂社勧請ののち、同社前に移した。(参考 須崎市史)

 


とさぶし伝説探訪
高知県立歴史民俗資料館 梅野光興さん
黒田郡の伝説は県下各地に伝えられています。高知市では、母を亡くした乳呑み児に与えた玉が盗まれたことに怒った龍神が黒田郡を沈めたと言います。四万十町志和では、沖合に浮かぶ暗礁が黒田郡の山の嶺の一部だと伝えられています(桂井和雄『土佐の伝説2』)。志和にも野見の潮ばかりと同系統の「夜潮立て」の行事がありますが、これは地震で亡くなった黒田郡の人々の供養のためとの説もあります。繁栄した町や島が海に沈んだという伝説は日本各地にあって、宮城県でも桜木千軒、赤松千軒と呼ばれた二つの町が陥没して海になったという話があります。昔、海に沈んだ町という物語は人々のロマンをかきたてるようです。

 

【とさぶしMAP】多ノ郷の賀茂神社、野見の潮ばかり

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