Posted on 2015.09.24

移るんです 其の二

落ち延びた?安徳天皇

土佐には古くから流されてきた人々がいた。
「どっちに付くのか?」「右か左か、前か後か?」
一歩間違えれば人生が大きく狂う、そんな瞬間が一生に一度はあるもの。
得か損か、信念を通すか曲げるか、迷いは深い。

土佐に伝わる安徳天皇伝説

安徳天皇御影:横倉山自然の森博物館所蔵(模写・複製)

覚えていないけど、ぼくは1180年、
満1歳4か月のとき第81代の天皇になったんだ。
で、亡くなるのは1185年、
祖母に抱かれて三種の神器とともに海へ。
まだ6歳4か月、
今で言えば小学校へ入ったばかりだった。
この平家滅亡のシーンは涙を誘い、
歌舞伎にもなっているほどなんだって。
後で聞いたよ。​

 

ぼくは「女の子」?  

 1歳4か月って「若すぎない?」と思うかもしれないが、父の即位は6歳7か月、その1代前も1歳に満たないままの即位で、後白河天皇が院政を敷いていたからのことらしい。当時は公家に割り込むように武家が大きく台頭してきた時代で、朝廷もどっちに付くかの混乱期にあったのだろう。

 実は、安徳帝は「女の子だった」とも言われている。平清盛が娘を高倉天皇に嫁がせたものの、生まれたのが女の子だったので、継承権を得ようと男と偽った謀(はかりごと)ではないか、というもの。まあ、6歳くらいまでは男か女かは疑われにくかったに違いない。

 

終わりが始まり

 安徳帝は亡くなるときも「女の子」だった? 『平家物語』では入水の際、長く垂らした髪を少年らしく短く結い直したことになっている。もともと男の子だったので、逃げるとき見つかりにくくするため女の子を装ったものの、最期は本当の性でということだろうか。

 教科書はここで終わるが、土佐では物語がここから始まる。海に飛び込んだとき、安徳帝はすでにすり替わっていて、平家一門約300名とともに1185年4月、壇ノ浦から四国に上陸し、徳島・祖谷へ入り、高知・西熊山から山嶽沿いに本川・越裏門(えりもん)を経て、椿山(つばやま)、別枝(べっし)都に至り、横倉山にたどり着いた……。

 

安徳帝は9人いた? 

 これは、もっとも有力とされる越知に残る伝説。しかし! 安徳帝・平家一門が落ち延びてきたという伝説は高知の山嶽沿いに多数ある。安徳帝がここで亡くなったという陵があるとするものは越知町をはじめ、香美市5、大豊町1、仁淀川町1、土佐清水市1、と9つはあり、平家が来たという話は全域に広がっている。(地図参照)

 

源氏も流されていた

 遡ること20年。平治の乱(1159)で源義朝は敗北、長男・頼朝は伊豆へ、5男・希義は土佐へ配流された。源氏再興を謀らんとしていた希義は頼朝の決起を聞いて馳せ参じようとしたが、土佐の平家方に知れ、途中で討ち取られてしまった。

 利害も理想もごちゃまぜになりながらも国のあり方の主導権を取ろうと仕掛けて、敗れたら逃げるか、捕えられて流される。しかし、屈辱の地はリベンジの計画を温める地でもあった。

 

平家伝説の謎

 それにしても、なぜ平家の落人伝説は高知に広く残っているのだろう。しかもそれは、今でも訪れることが難しい深い山々にある場合が多い。

 普通、海側から川をさかのぼる形で文化が広がるが、土佐は海側からだけでなく山側からも開けた、と言われている。山嶽地帯に落ち延びてきた人々が、刀をに持ち替えて、山を拓き焼畑を始め、暮らしの基盤を築いた跡が広くある。

 高い教養や文化を広め、先祖を想う祭事を興し、土地に溶け込み、耕し続けてきた。それは、誇りと反骨精神に支えられてのものかもしれない。


高知県の平家伝説マップ

せん


越知平家会 澤田さん 

澤田泰彦さん(越知平家会 事務局長)

 越知町横倉山には宮内庁が認める安徳天皇御陵参考地があります。その他の参考地山口、熊本、鳥取、長崎・対馬の全てを訪れましたが、ここ横倉山がもっともふさわしい規模があり佇まいが最高だと思います。鳥居も天皇家を祀る時の独特の形で、石段は歴代の御陵の一部と同じくまっすぐではなく「く」の字に曲がっているんです。
 平清盛の4男・知盛が阿波の豪族・田口氏と企てて、もともと平家派が多かった土佐の西部へ天皇を導いたのではないでしょうか。30年前の調査では、越知に80人以上の従臣の墓が見つかっています。
 私はどうも源氏の子孫らしいのですが……。
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