Posted on 2015.06.24

移るんです 其の一

Iターンした山内一豊

土佐には古くから流れてきた人々がいた。
飛ばされ、流され、時に修行のため。
理由はいろいろあれど、いずれも「心晴れ晴れ」ではなかったであろう。
そんな中、山内一豊は数少ない栄転での異動だった。

山内一豊

山内一豊肖像画/土佐山内家宝物資料館所蔵

 わしは1545年、岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の次男として生まれたんじゃ。
13歳で兄、15歳で父を失ってからは、諸国を転々と流浪してなぁ。
思い出すと、あの時が一番つらかったものよ。  
 秀吉軍に従って手柄を立て、信長殿により近江・唐国(現・滋賀県虎姫町)400石を与えられ、
小さいながらも領主になり、その後、掛川5万石の領主に出世した。
関ヶ原の戦いでうまく立ち回って、1601年、土佐国の大名になったんじゃ。
あんまりわしのことを知らん人も多いので、ぜひこの機会に━━。

あき

内助の功を得て
 山内一豊(やまうち かつとよ)というと、織田信長が都(みやこ)で挙行する馬揃えのイベントに合わせ妻が大金を払って名馬を購入し夫の名誉を守った話が有名である。良妻賢母の手本とされる妻は、関ヶ原の戦いを前にした時もひらめいたのか、石田三成の挙兵計画と忠誠を尽くす手紙を徳川家康にしたため、その功績で一豊は土佐一国を与えられたとも言われている。
 

見知らぬ土地に赴任する不安
 「土佐という全く知らない土地に行くことになるが大丈夫だろうか?」――栄転となれば、ふつう有頂天になるところだが、行く先が「遠流(おんる)の地」ともなれば一豊は少々ビビったに違いない。しかも、四国を統一したほどの勇猛な長宗我部元親の軍団は武装解除されたはずとはいえ、数では山内の軍団を圧倒的に上回っていた。一豊の不安は、入国前に弟を先に行かせたことに垣間見ることができる。
 高知城を築いた一豊は、武士が馬に乗って走るのを藩主が櫓(やぐら)から眺める「御馭初(おのりぞめ)」という長浜・掛川で行われていた正月の風習を毎年欠かさなかったが、1662年の記録では土佐藩士296騎に対し地元郷士613騎と倍以上で、後々まで軍事的に不安定だったと言えるだろう。


山内一豊の夢
 どの武将も同じかもしれないが、全国の大名とひけをとらぬ存在になることで、山内家の安泰と土佐国の繁栄を願ったのではないだろうか。関ヶ原決戦前の土佐は9万8000石と言われていたが、「もうちょいで10万石やないか」と思ったかどうかはわからないが、入国するや再測定を行い結果20万石であると報告し、一気に一流大名に仲間入りを果たした。
 一豊は土佐に入った途端、浦戸一揆や本山一揆で現実にぶつかり、さすがに懲りたのか、これ以降、長宗我部の家臣やその慣習を壊滅させることより、むしろ取り込むようにした。
 

守ってあげる代わりに
 市(いち)も同様だったのではないだろうか。4代豊昌の時代の1690年、今日の日曜市の始まりと言われる市設置の定め(元禄大定目(げんろくだいじょうもく))を出している。これは、江戸時代以前より続いていたまちの街路に近郊農民などが物を売りに集まっていた慣習を〝公認〟したもの。これは、信長が楽市楽座でやったように、「お城下で誰にもじゃまされず自由に市を立てていいよ」と農民や商人の利益を守るようにしながら、「決められた日に市を立てることは守ってね」とやんわり統率しようとしたとも考えることができる。藩の権威を浸透させるジワリ作戦だろうか。


地域に根づいて
 少数与党のような状況の中、長宗我部の旧勢力を温存するリスクがあったとしても、山内家の慣習を無理強いせず、むしろ土佐に根づいていたものを認めるというやり方が地域に溶け込むことになり、約300年間にわたり藩を維持することにつながっていった。そして、幕末維新以降、坂本龍馬をはじめ多彩な人物を輩出することにもつながったのかもしれない。


江戸時代の街路市の様子。土佐の日曜市の原風景

絵金 「土佐年中風俗絵巻」(部分)/高知県立美術館寄託 江戸時代末の市の風景が見てとれる。

【お詫びと訂正】
とさぶし11号 P20-21の絵金作「土佐年中風俗絵巻」を使用する際、誤って裏焼きし反転した状態のものを印刷してしまいました。読者のみなさま、関係者のみなさまに、ご迷惑おかけしましたこと心からお詫びいたします。
なお、このページの画像は正しい「土佐年中風俗絵巻」に修正しています。 既に冊子をお持ちの方のために、「土佐年中風俗絵巻」を印刷した訂正紙を用意いたしました。とさぶし編集部まで送付先をお知らせいただきましたら、直ちに発送いたします。

せん


古賀康士さん(土佐山内家宝物資料館 学芸員)

 「功名が辻」では妻に光が当たり影の薄かった山内一豊ですが、戦で頬に矢が刺さった時に「顔を踏みつけて抜け、草鞋のままでよい」と命令するマッチョな一面や、当時流行の最先端にあった南蛮帽や陣羽織を身に付けたおしゃれな一面があったようですね。
 入国後は、他の国へ逃げた“走り者”に対して重い罪を課すのではなく「戻ってきてや」という還住策を積極的に行いました。強引な政策を進めるキャラの濃い武将よりも少しゆるい一豊が赴任してきたからこそ、高知独自の文化が守られることになったのかもしれません。


参考文献:「平尾道雄選集 第三巻 土佐・人と風土」平尾道雄著/「土佐の永代小作権と自由の系譜」福留久司著

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